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日記/どこへ行った?

忙しかろうと、暇だろうと、日記に取りくむ前の五分間ばかり、ただ・・思う時間、ただ・・感じる時間を確保する。昨夜は、H海道電力的案件にまみれたりなんだり、これを瞑想とよぶには、ややよこしまだ。しかし、この人生、難破しているようでいて、ほとんどの苦悩は狼狽と錯覚である、と悟るのに、五分間は、まあ充分な時間だ。落ち着きなさい、脚をのばせば、あるいは砂地にとどこうよ。とどかなければ、手足で掻けばよかろうよ。視線はつねに、水平線のかなたへ、いざ船を、陸地を見すえよ。時とは、どう抗っても過ぎてしまうもの、ではない。いかなる逆境にも棹さして、わたしのために・・・・・・・過ぎてくれるものだと直観する。死とは、たしかに最高の救いであるのだ。それゆえに、土壇場のそのまたきわまで、わたしたちは、生にしがみつかねばならない・・・・・・、たとえ惨めでも、たとえ居たたまれなくても。いのちとは、波のまに見るオリオンたい。季語はオリオン、たぶん冬ばい。等々、そういうライン際の精神の徘徊を、この時間のスロットに閉じこめる。のこりの時間で、俗世を俗に生きぬくためだ。むしろ、あべこべだ;弊日記という『人生』を、日々醇正じゅんせいに十全にまっとうするために、俗を、俗世スロットの側へと閉じこめる。まあそんなこたどちらでもよいが、heaven helps those who help themselves とは、けだしそのようなことである。ところでみなさん、わたしは、先ごろ撮ったこの pic がひどく気にいっているのだが、

いたく気にいっているようだ

この小川は、右手が上流、つまり右から左へと流れている。そこまでは、たしかに川なのだ。そこから先は、見てのとおり雪なのだ。画像の左手も雪、そして長い暗渠あんきょ。なんぼ地図で確かめても、この暗渠の出口が見いだせない。わたしのなかでは、この川は、橋の真下のそこで、なんと終わっている。いや、川は終わらんやろ。とは言うものの、where has all the water gone, 水はどこへ行った?

あるいは作者の Pete Seeger にするか、あるいは The Kingston Trio にするか、いやこの際、ぜんぶ貼ってしまう。

Marlene Dietrich のドイツ語ヴァージョンも味がある。

かつての反戦フォークソングを軽視し、どこかさめた目でみるのは、万人の自由なのだ。だが、それならば軍歌でも歌っとくか、あるいは、歌を忘れたカナリアか。あっちを向いて、恋だの愛だのを歌うのも、また結構だ。ただ、戦がまっさきに粉々にするのは、その恋だの愛だのであったりする。いまは戦前だ、とタモリが宣った由。当たるも八卦、当たらぬも八卦。戦中になってしまい、あわてて宗旨替えしても、それはさすがに、浅はかだ。1930年代の日本思想史は、何にもまして、おさらいするに値する。

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