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さあ、プレスを掻い潜って

先日、ある若い癌患者の不平を扱うニュースを読んだ。彼がサバイブしたとたん、彼の動画チャンネルの視聴者数が急減したそうだ。
これを読んで、短時間にわたしの両チームを巡った複数の印象を、つらつら書き起こしてみたい。
なお、これは彼の事情や言動に関する文章ではない、それは単なる思考の引き金トリガーだ。
どれも、わたしの内心のあったかくていい気な俗情(以下 チームA)に対して、チームBが《プレスをかける》物言いになるはずだ。
強く適切なプレスをかければ、まがいもののチームAなら手もなく崩れる。本物のチームAなら、輝かしい活路を見出す(生きてれば)。

*

ヒトの数だけ語られる物語がある、とは、裏を返せば、ヒトが語る物語などその程度である。明白な重複を避ける沈黙は、知性のひとつの型だ。雄弁とは、知性の欠如。
ヒトの腹から生まれ、ヒトの世に生きてゆき、ヒトとして死ぬ。どれも『平凡』の一言から逸脱するものではない。にもかかわらず、ヒトにことばを与えれば、なぜこうも雄弁に得々と『平凡』を語るのか。

語ることばを持たず、語ることなく生を畢えた無数の命は確かにあったのだ。もし、長寿と夭折とを問わず、ヒトの生命が平等だというなら、なぜ実に多くの年寄りいきのこりが、ただ年寄りいきのこりというだけでふんぞり返るのか。長寿は特権だと言わんばかりに。
そうだ、認めてみよう、長寿は選ばれしヒトのみの特権だと。この『平凡』をひたすら延ばすことこそが、ヒトの唯一の勝利だと。わたしもその勝者の特権を、ただのんきに享受しているのだと。あらゆる興味とは、弱者敗者が足掻くポルノに対する興奮なのだと。

いざ筆を執り、気づけば、キョロキョロと探してはいないか。
わたしのみが持つエピソードを。
ヒトより優れた学識を。
よそのヒトが気づかぬ『ささい』を。
細やかな感受性を、鮮やかな比喩を。
そのとき、わたしというヒトは、一体どこを向いているのか。何が文学だ、何が作品だ、何が独創だ、何が何が何が、どこもかしこも、突き詰めりゃわたしばかりだ。くだらない、それが厭で仕方がない、
口ではそう言いながらも、結局お前は(平凡なるヒトの分際で)ほら、書くではないか。要は見られたい、見てほしいのだよ、just look at me だよ。
この文章だって、どんなに鎧で覆おうと、その愚劣さは同じことだよ。

ない。
書くことなど、どだいないのだ。
書かれるべき話などひとつもない。
誇られるべき知識などひとつもない。
記されるべき機知などひとつもない。
どのような比喩も陳腐極まる。

そこから始めてみよ。屈するならとりあえず黙れ。

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このプレスとやらは、そもそも何のためのものなのか。
表現の自由とは、先方(御館)の恣意的な都合で下々の表現を禁じてはならないという戒めであり、下々よ何でもかんでも表現なさいという奨励ではない。
ところが、御館様の恣意的な表現弾圧のみが、表現を磨き鍛えるのだ。不条理への直面、不条理の直視、それのみが表現の本質を真剣に問い直す機会だ。
真剣に妥協なく不条理を直視するヒトの表現は、弛みと余剰と感傷と、何より鼻持ちならぬ自己愛を削ぎ落とし、語られることばは磁力を帯びる。
弛み。余剰。感傷。自己愛。
どれもまあグサグサと、それぞれがチームAの致命傷になることばではないか。

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ところで死は不条理か。
死ほど条理にかなった事実はない。
ゆえに、いかに己の来るべき死を凝視しようと、それ自体は表現の何でもないのだ。
八十翁の癌患者に思う本音と、十代の癌患者に思う本音の汚らしい違いとは、病や死そのものにではなく、不平等な寿命に感ずる不条理に因るものだ。
半歩進めよ、気乗りはしないが。
直視すれば、病も不遇も若さを消費するためのネタではないか。ついでに性別や美醜をもフリカケにしているではないか。
若さをコンテンツとして差異化し消費し尽くす吸血鬼ドラキュラ
今ときめくコンテンツとは、消費とは、差異化とは、どれもこれも汚穢に満たされた便壺パンドラの箱だ。

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この箱に蓋をし、鍵をかけ、重しをのせて、いけしゃあしゃあと片手間に毎日更新、けふもまた創作に勤しむ、など。

*

わたし内チームB(考えるほう、ビブは青色)のプレスはいつも、なかなか的確で執拗なのだ。心底うざったいのだ。

人に踏まれる前にわたしにもみくちゃに踏みしだかれ、チームAの麦はもう、芽の欠片も残っていないように見える。

さあチームA(ビブは黄色)、この偏執的なプレスを掻い潜り、ことばの活路を見いだせるか!?

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本日24時、いよいよキックオフ。

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