崖あるきツアー
崖の一本道を歩いてゆく。もっとも、ところどころにわかれ道もあるようだが、それには、だいぶ進んだあと、あれがそうだったのか、という、変てこな気づき方をする。どちらにせよ、ひとりの人間には、一本の道しか歩けないのだ。どこを歩いても、両側は絶壁の崖。単調なくせ、楽ではないこの旅のまにまに、はるか下、崖の底が恋しくなるときだってある。見てごらん、向かって左が、《盲信》の崖。別名、《恍惚》の崖とも云う。ここを堕ちれば、この旅の苦痛は、何やらたいそう減るらしい。折にふれ、そろそろそれもありだ、と思いもするけれど、もう少し、自分の足と自分の眼で、この旅を背負ってみたい。そして、向かって右が《死》の崖。左より険しくて、谷底は真っ暗で見えもしない。いますぐにこの旅を終えたいなら、意を決して、ここから堕ちればよい。足を挫いたり、ひどく傷を負ったりで、何度かそれも真面目に考えた。でも、そのたびに、堕ちたいときには、いつだって堕ちることができる、本当にそれはいまなのか、と自問した。そして、まだ歩きたい、もう少し先まで見てみたいのだ、と自答した。そういうわけで、まだ崖の一本道を歩いている。いまは、雪と氷の町。たえず吹きつける風から、たまらず顔を背ける。後ろを向けば、通り過ぎた町並が見わたせる。愉快な町、耐えられないような町、どれも見える。あそこでは、全力で走ってみたりもした。あの辺で、ぴかぴかの車に乗ってもみた。悪くはなかったが、それは、走った、乗った、つまりはそれだけのこと、だった気がする。いずれ、決して戻れない。それらはどれも、終わった町なのだ。ここで凍えないよう、前を向く。足元しか――ときに足元さえも――見えないこの旅の先に、まだ、何かあるだろうか。近ごろは、めっきり弱気なのだ。……こうやって、誰に読ませるあてもない旅日誌の鉛筆を執る、そのことが弱気な証だ。巡り合わせで、いつか、はるか先、誰かが小汚いこの日誌を見つけるかもしれない。その時、ひょっとしたら、これは何かの役に立つかもしれない。役に立たないかもしれない。だが、それがこの旅にとって、何だというのだ。告白する。かつて数度、左の崖、《恍惚》の崖から飛び降りた。転がった崖下には、その名のとおり、盲信の人、恍惚の人の群れがあった。確かに、貸与したこの頭ひとつでいちいち考え、いちいち決断して歩き続けることは、なかなか骨が折れる。しかし、見も知りもせぬ誰かの頭にしたがい、決断を他所まかせに、ただ無心で歩きつづけることは、それもまた、一種、そらおそろしい経験であった。何とも言えず耐えきれぬ、と、遮二無二はい上がってきた。また、この一本道を歩きはじめた。どちらがよかった、というのでもない。つきつめれば、虫が好く、好かない、それだけ、嗜好の問題なのだろう。日が照ってきた。思えば、上のほうが、ほんの少しだけ、日当たりがよいのも気に入っているのだ。よくわからないが、なけなしの『幸せ』というものがあるとすれば、この昼下がりの陽光を浴びて、しばしぼーっと、ちょうどいまみたいな感じで、午睡にまどろむ、この短い時間かもしれない。――このようなログ、さだめし誰の役にも立たないだろう。