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こころの小骨の備忘録
コロナは存在しなかったり、ちょっとした配慮を求める小さな声は甘ったれであったり、イチローは所詮三流選手であったり、Twitter をはじめとする SNS の『世間の声』を眺めてると、この国って、(控えめに言って)かなり深刻な病理学的症状を呈していると思うの。
こういう「オレ様の持論」は、とかく狭量で独善的で高飛車でセンセーショナルで、そのくせデータだエビダンスと騒ぎ立てて、隣に座っている人がこんな生き物だと思うと、わたし正直身の毛がよだつ。
実際、隣に座っている人がこんな生き物でない確証もないから、わたしはいつも、お外で身の毛がよだっているのさ。
どきどき。
でも同時に、わたしが直に知っている人の大多数は、コロナはもちろん存在しているし、配慮を求める声にはとても敏感だし、イチローはまあ一流だと思っているし。
どうもその極端な divide が腑に落ちない。
弊社のサンプルの偏りなのか、あるいは、一億総二重人格なのか。
何より恐ろしいのは、価値観の多様性という御紋にあぐらをかいて、偏頗なミーイズムをどんどんこじらせてゆく「孤独な人」たちよ。
助け合い、という一昔前の当然が、もはやユートピアの戯れ言にしか聞こえない人が、意外とものすごく多いのではなかろうか、と。
No one will help me, so I will help no one. 万人がこうなったら、生きることは単なる無情なサバイバルレースに堕してしまう。
いつの時代でも、自己の肥大化はよくあること。
ただ、生身の(ゆえにシビアな)お付き合いを経て、歪んだ形で肥大した自己は、徐々に矯められ、丸くなってゆくと思うよ。
ところが。
知人がいなければ、当然コロナに罹って苦しむ知人もいない。だから、コロナはない。洗脳だ。
隣人を遮断していれば、切実に配慮が必要な隣人は見えない。だから、配慮が甘えだと断言できる。
かく言うわたしも、自粛とリモートとマスク越しの日々で、だいぶ人間のいきれた臭いを忘れてしまっているもん。
ま、イチローの話は冗談だけど。
冗談はおいといて、Twitter ってものは、こりゃ改めてすごい毒薬だと思う。
よく、若い子たちはディジタルネイティヴだから、外は外 SNS は SNS と割り切ってますよ、みたいなお気楽な論調あるけど、人間ごときにそんなことができるんかいな。
仮にそんなことが人間ごときにできたとして、じゃあ、現実と思惟とを止揚するという試み営みを、SNS ネイティヴ世代はごっそり諦めて生きていくってことなのだろうか。
ちょっと突っ込みはじめると、いろんなことがおじさんにはよく分からなくなるのよ。
だから、もう基本は黙ってコーヒーばっかり飲んでるんだけど。
コーヒーはあいかわらず美味しいし。
逃げちゃダメなんだろうけどね。
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