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日記/STOP! 論破

気温が高いくせ、やたら降りやがる。積もった雪も、脛までざくっ、とぬめる・・・。固くて、粗くて、夏にコンビニで買い食う、いちごのかき氷

固くて、粗くて、の比喩

だ。気圧のせいで、烈しい頭痛も、やあこんにちは。アマタツではないから、天気については、きわめて無責任にして、主観的だ。せめてここは、宗教的になったつもりで、ヨハン・セバスチャンの方のバッハを聴く。チェンバロ、びんびんと頭痛に響くけれど、これは神のご意思である。あーめん。中学三年の音楽の試験で、五人のビエネッタヘアーの写真を雁首揃えて、

森永ビエネッタは、ぱりっとしとる

それぞれの名を書かされた。顔ね、そう来たか。作曲家の顔面とは、いかなる意味で、重要であるか。なるほど、この顔が、バロックに対位法の復権をこころみたのだな、と、ひとはこのように、藝術家の顔を見るものなのか。「G線上のアリア」を聴きながら、あの渋柿のごときおっさんの肖像画、を想起せねばならないのか。いまにして思えば、あれはその後出場する『高校生クイズ』の準備であったのだ、そうだ、神(と貞松先生)は、いつもそのように周到であらせらるる。あーめん。え、日記ですか、きょうはあれだ、小生、こんなぐにゃぐにゃの身体でして、外にはほとんど出ておらんのです。洗濯物干しましたが、日記でしょ。皿もだいぶ洗いましたが、うーん、日記だもんな。そうだね、時代は、対話から議論へ、議論から論破へ、論破って、人も文化も、とことん小馬鹿にしたあれ・・だな、お互いが論破しか考えず、せっかく虎のごとく貴い対話の種を、ぐるぐるぐるぐる、まったく無意味にこね回しあって、バターに錬金するのだ。という夢を、憤りながら見た。昼前だ。実朝のことを考えながら、うつらうつら、「愚管抄」の頼家暗殺の「頸ニヲヲツケフグリヲ取ナドシテコロシテケリ」の、二重三重に残酷なシーンの夢を、妙にリアルに憤りながら見た。これは夕食前。ぷんすかするから、ぷんすかの夢を見るのか、ぷんすかの夢を見たから、ぷんすかしているのか。夢の永久装置だ。あと、豚汁はとても美味しかった。「ぶたじる」派から転向し、いとも容易たやすく「とんじる」派に改宗したわたしは、根っから、宗教的の才能がないのであった。

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