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コラム/ドイツ銘菓・エックハルト

マイスター・エックハルト Meister Eckhart について書く。
いまから700年ほど前、ドイツのあたりで坊さんをしていた。
余談だが、ぼくの兼好法師とほぼ同世代だ。

知ってるから書くのではなく――もう、そんな記事は廃れてゆくのだろう――あくまで、知りたくて書くのが本稿の目的なので、もし、おなじく関心をお持ちいただけたら、まずは Wikipedia, あとはググっていただき、各々方、面白そうなのを読んでいただければ、と。
岩波の『エックハルト説教集』は鉄板であろう。

*

エックハルト法師、若いころは、「真面目な」坊さんだったが、組織のなかで真面目が過ぎれば、異端呼ばわりされる。世の常である。
神 → (神の子=キリスト) → (教師=神職) → (下僕しもべ= 民たち。
利権独占を期すための予定調和、このトリック、このほころびを、真面目に突き崩してしまった。不純な教義、高額な仲介手数料の害悪を、仲介人の前でプレゼンしてしまった。
これはまずい。うちの娘なら、耳を塞いでテレビを消す場面。
法師は案の定、異端告発された。審問――吊し上げ、下手すれば処刑――を待つうちに、亡くなった。
バティカン(仲介人の元締め)からは、まだ赦されていない。

*

エックハルト法師は、じつにセンスに卓越した坊さんだ。いったんバイブルを伏せ、目を伏せ、論理ロゴスの糸を手繰る。

本来無である神が、ロゴスを通じ、物を創造する。創造された物=ひとは、いわば神の屁のようなものだ。
神の屁たる私たちは、屁の意志において自屁を変革できない。自屁主張すればするほど、臭くなるだけだ。
ゆえに、無に徹せよ、神を受け容れるポリ袋たれ【人からの離脱】。そこにのみ、神が in-spire 吹き込まれる。
現世のあらゆる苦悩は、神で充たされた私のうちにおいて、神が共に悩み給う。
神はなにかを与え給うかもしれぬ、与え給わないかもしれぬ。「共に」在る。
これがすべてだ。

この坊さんのロゴスは、まだ止まらない。
人が神のことを「考える」ならば、それは、人において考えられた神に過ぎない。衣、髭、眼差し、そんな人格神は fakeバッタ である。棄てなさい【神からの離脱】。
「神性としての無」を inspire されることで、『「神性としての無」に充たされた私』もまた、無、すなわち最上の存在でありうる。

*

あらゆる神職は要らない、キリストも特に経由の要がない。つまり、法師のロゴスを追えば、キリスト教はもはや、「キリスト」教である必然性を失う。
これを、キリスト教という巨大ギルドの中枢で説いた。
道元禅師が、いきなりバティカンで滔々と語り始めたような、この爽快感。

やばないすか。

N党より過激、ガーシー議員よりセンセーショナル、こんまりより棄てまくる。
絶対に推しオススメ、エッグタルト。

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