武蔵

#2 今失われつつある教育がここに。

こんにちは!
毎週金曜日開館の【Vivid Books】へようこそ!
受験競争に明け暮れる社会的風潮の中、マイペースな独自の教育を守り続ける名門中高一貫校のルポがこちら。

目次
1.今週の一冊
2.要約
3.学び・気づき
4.さいごに

1.今週の一冊

作品名:名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと
作者:おおたとしまさ
出版:集英社、2017年


2.要約

武蔵高等学校中学校は、卒業生160人のうち多い年にはその半数が東大に合格したという「御三家」と呼ばれる名門中高一貫校です。しかし、東大者合格者数は1990年代以降減少していき、少ない年には18人まで落ち込んだそうです。これを聞けば武蔵の教育力が低下していると思う人も少なくはないでしょう。

しかし、そもそも武蔵は東大合格を目的とした教育を行っていないのです。中学1年生から東大に向けた勉強などは武蔵らしくないのです。武蔵では真の意味での『まなび』とは何かを教員一人一人が考え、生徒に接していて、遠回りでも自分でじっくり考える機会をつくっているのです。そういった「自調自考」が浸透することによって、結果として東大合格を果たす生徒も育っていくわけで、東大を目指す教育と結果として東大に合格する教育は全く違うというのです。

この本では、やぎを校内で飼ったり、英語の授業ではプロの演劇指導をしたり、地学の岩石の薄片プレパラートを教材会社から買わず自分たちで作らせたり、校外学習は現地集合・現地解散だったり、というような一風変わった教育の様子や意図に迫る内容になっています。

受験のための学びや教育ではなく、本来あるべき学びや教育の在り方とは何かを考えるきっかけを与えてくれる本となっています。


3.学び・気づき

①徹底された「自調自考」について
受験を意識しない教育への疑問

まず感じたことは、徹底された「自調自考」という考え方です。
武蔵には建学の精神として、①東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物、②世界に雄飛するにたえる人物、③自ら調べ自ら考える力ある人物、という「武蔵の三理想」が掲げられています。特に③を省略して「自調自考」と呼んでいるようです。
武蔵で飼育されているやぎは「日中にとにかく何でも食べ、夜に取り入れたものを少しずつ反芻する性質」のため、「学校で教わったことは十分理解できなくてもとりあえず取り込み、家に帰って徹底的に理解できるまで咀嚼する」という武蔵生にあるべき姿を表しているようです。また、学年全体で行う校外学習から選抜型の国外研修はすべて現地集合・現地解散という徹底ぶりもその表れでしょう。僕なんか新幹線のチケットの取り方最近知りましたよ。(笑)
ちなみに修学旅行は「集団の中に個々の責任が埋没してしまうような学校行事」とされ、1978年に廃止されたらしいです。そもそも、既に旅行の日程や場所が決められてしまうのであれば行く意味ないよね、となってしまうようです。(笑)

疑問に思ったことは、このような武蔵の教育に再現性があるのかということです。
世間が武蔵に注目しているのは、武蔵が「受験を意識しない教育」を行っているにも拘わらず、大学受験では東大合格者を、そしてその後に社会で活躍する人材を多く輩出しているという点だと思っています。武蔵生だけでなく、教員の方々も受験よりも大切なことを生徒が学び取る機会をつくるのが学校教育の在り方だと考えておられるようです。
しかし、彼ら武蔵生が、中学・高校とそれほど受験勉強を意識せず、自由な校風の中で育っていき、それでいて受験や社会で活躍できるのは、中学受験勉強が作った「地」があるからこそだと僕は思っています。彼らが小学生の頃にある程度の詰め込みを経験したことや、高校卒業後には大学に行くことが前提であってはじめて、武蔵の教育は成立するんじゃないかと。こう思うわけです。
なので、当然のことながら小学校のうちにしっかりと勉強することは大切だと感じる一方で、結局そこに投資できる層が武蔵のような豊かな教育を受けられる構造になっているとすれば、やはり単純に武蔵のような教育を広げていくことは難しいのではないかと思いました。
もちろん、このような教育を自分は受けてみたかったですし、大事だと思いますし、子どもができたら受けさせたいなと思うのですが。


4.さいごに

実は親戚が武蔵に通っていたということと、武蔵出身の法政大学教授である湯浅誠さんの本を大学1年時に読んだことがあったため、勝手に武蔵に親近感を持ち(笑)、2017年の発売後すぐに買って読んだものを再読してみました!やはり2回読むと理解が深まりますし、批判的な見方もできるようになっていいですね。


僕は武蔵の「大学合格に向けた効率的で画一的な学び」とは真逆の「何のためにやるのか理解しがたいけど考える力を伸ばす自由な学び」に共感しました。

僕の周りでは、話が二転三転する教養の塊みたいな先生の深い授業よりも、レジュメの空欄を用語で埋めるテストに出やすいことを分かりやすく教えてくれる先生の授業の方が好まれているように思えます。しかし残念ながら、これがまさに「自調自考」を欠いたテストのための勉強であり、本来の大学での学びとかけ離れた形にあるのではないかと疑う学生はほとんどいないのです。

手段が目的化している。まさしくイヴァン・イリイチの指摘する「学校化」が起きているわけなのです。

最後に偉そうですが。

これからも武蔵高等学校中学校には『教育とは何か、学問とは何か』を発信し続け、日本の教育をリードする存在であってほしいと思っています。


次の定期投稿は月曜日【ラーメン やまもと家#3】です。
それではまた。

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