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Drive!! #66 ボート X 小説

「最近前より下手になってる気がして」
井上の顔は極めて神妙だった。隣を歩きながら、辰巳は先ほどまで自分が心の中で、井上がチェリーだろうとか想像していたことを申し訳なく思った。
***
練習中の井上のブレードを思い出してみる。特に気になる動きはない。ビデオの映像で見ても、変なところは特になかったように思うが。

「前よりめっちゃ疲れるんですよ。なんか前よりも、ずっと早く体の限界が来るような気がして。でもエルゴの値は落ちてなくて。だったら、下手になったのかなって思ってて」

「一回シングルに乗って、鍛え直したほうがいいのかなーって思ってて。戸田に来たら、小艇に乗ってる人も沢山いるから、シングルとかどうなのかなーって思って」
台本ならバーっと喋れるんだな。井上が心配していることは、そう悪いことではない気がする。ボートは始めたばかりだと無駄に暴れるばかりで、エルゴと比べてもそんなに疲れることはない。でもだんだんと漕げてくるようになると、水が掴めるようになり、その分疲れも増す。作用と反作用だ。

多分、井上はだんだんとその段階に入ってきているだけなのだ。
そのまま上達の道を歩めば大丈夫だと思う。無用な心配に悩んでいる後輩の、誤解は解いてあげないとかわいそうだ。
「それっていいことなんじゃない。漕げてるから疲れるってことだろ」
「え、そうなんですか?」
井上はこれでもかと、目を丸くしている。

「たぶんそうだよ。力が伝わってるから、体が疲れてるんだと思うよ。そりゃ変に力みまくって、暴れてて疲れてるんなら、ダメだろうけどさ。井上は漕ぎの癖、そんなにないから、そういうわけじゃなさそうだし。安心していいと思うよ」

井上は空中を見つめながら、
「あー、そうなんですね。考えて見たらそうか、そうか、そうだよな」
と独り言をブツブツ言い始めた。指は落ち着きなくあちこちに動いている。そして、だんだんと声は小さくなって、指の暴れも治って、そのうちに黙った。

彼の中で、疑問は解決したらいい。俺も安心した。
"解決しました。ありがとうございます。"とかは言わない。でも、表情明るく歩いているので、もう大丈夫だろう。
こんな挙動不審な人物でもボートに乗ると、とことん頼もしくなることを思って、つくづく不思議な気持ちになった。

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