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Drive!! #9 ボート X 小説

「ミドルスパートですか?」
それは、六甲大との試合が2週間後に迫った頃。
今日から徐々にレースペースへの練習は以降していくというときだった。

僕は翔太さんから当日のレースプランを聞かされた。
「ああ、剛田と友永に勝つにはそれしかねえと思ってる。リスクが高いから、あまり俺らの大学では使ってないが、次の試合に限ってはミドルスパートが得策だろう。」
ミドルスパートというのは、レース中盤でそれまで継続していたリズムを一旦断ち切って、思い切ってレートを上げて、艇速を上げに行く作戦だ。それまでの試合の流れを一気に変えられる可能性を秘めている一方、失敗すればそこで負けが決まってしまうリスクもあった。マラソンの途中で、ペースを見誤って上げると、そのあと目も当てられない走りになるのと同じだ。

「その時の流速によって、コンスタントのレートは変わるだろが、漕いでいるレートから2枚上げてほしい。例えば、そこまで36回/minのレートで漕いでいたら38回/minまで上げてくれ。徐々にではなく、一気にだ。剛田たちに対応する間を与えないことが重要だ。もし徐々にペースを上げれば、経験値の高い相手のクルーはそれを察知して、リードをキープしてしまうからな。」
僕は素朴な疑問を呈した。
「でも、そんなことしても後でバテたら一緒じゃないですか」
翔太さんは、笑いながら答えてくれた。
嫌味な笑いではなく、爽やかな声が響いた。
「確かにな、俺もそう思う。だが、実際のレースではそうはいかないのがボートの面白いところだ。陸上のトラックのように整備された道を行くんじゃなくて、ボートはあくまで自然の中でのレースなんだ。コースの流速や、波の高さも様々な中で、自分たちが"今どのくらいのペースなのか"、"うまく漕げているのかどうか"、それを相手との距離で測っている部分が多いにある。だから相手との距離が縮まれば、相手にプレッシャーを与えることができる。"もしかして上手く漕げてないんじゃないか"ってな。ましてや剛田たちのような強者なら、自然と1000m以降も差が広がっていく未来を頭に描いてるに違いない。そこを利用して、動揺を誘うんだ。」

なるほど。それなら僕にも覚えがあった。陸上でも、トラックに強い選手と、ロードに強い選手がいた。中でもロードに強い選手は未知数な実力を発揮するイメージがある。トラックでの記録はそこでは関係ないとばかりに、駅伝で手が付けられないほどスピードに乗ってごぼう抜きする選手もいる。

それから、相手が見えているのと見えていないのでは、走っている時の心持ちが全く違うのも、よくわかる。相手が近づいてくれば力が湧くし、遠のいていけば、走る気力が削がれた。それにきっと近いのだろう。ボートはすべての試合が、ロードということだ。
「どうだ、杉本。俺の案に納得してくれたか。」
クルー結成当初こそ、すれ違いもあったが、(というか僕がビビってコミニュケーションできなかっただけだが)翔太さんは今となっては、ひとつひとつ丁寧に話を聞いてくれる存在だ。
「僕にミドルスパートを教えてください。」
「わかった。今までの練習よりも、数段キツくなるぞ。」
そこからの練習は本当にハードだった。朝は4時30分から、大学が終わったら5時30分から、それぞれ2時間30分みっちりと漕いだ。脚が取れるんじゃないかというくらいだ。でもハードな練習の中で、今までにない充実感と、負けたくないという気持ちが湧いてきたのだった。

絶対に決める、このミドルスパートだけは。
「杉本、1000m通過した。あげてくれ。」
まだ観客のいない1000m地点に、翔太さんの怒号とも言える声が響いた。エイトのバウだけあって、声がよく通る。
「わかりました。」
僕は応えながら、オールで遠い場所の水を掴んだ。とにかくこの1本目が重要だ。
「シートスライドからじゃなくで、ドライブからあげるんだ。自分たちが動いてレートを上げるんじゃなくて、艇に動いてもらって、それに乗る感覚だ。」翔太さんの指導を思い出しながら、オールが水を捉えた瞬間に、僕は全身に力を込めた。最初のこの1本はとんでもなく重い。でもこの1本目の重さに負けないことが、ミドルスパートの勘所でもあった。強引でも良い。艇の動きを一変させるのだ。
その1本。思い切り漕ぎ切った。次に前のポジションに行くのは、さっきよりも軽い。艇がスピードを上げた分、自分たちの方に寄ってきてくれる。

レートは狙い通り36から38へ上がった。
さっきまでとは、明らかに動きが変わったのがわかる。

まだまだ未熟な僕が、ここまで綺麗にレートを移行できるのは、後ろから猛烈に艇を押してくれる翔太さんがいるから成り立つ。それでも紛れもなく自分が艇のリズムを握っている。この感覚は一度味わうと忘れがたい。最高だ。

ここから300mこのまま突っ込む。そこで差が変わらなければ、この試合は負けだ。
翔太さんのラストの六甲戦であるとか、相手がダブルでインカレ優勝したクルーだとか、この試合を特別なものにする要素はたくさんあった。でも僕はそんなものを度外視して、今は自分の力を出し切りたいと切に思っていた。
艇が面白いように進んでいるこの感覚を、一瞬でも良いから継続させたい。

それはボート に取り憑かれた者の性だろう。そのことを今僕は初めて理解している。ああ、これがボートなんだなと思った。今まで自分がやっていた競技が別のものであると感じるほど、別の世界がそこにはあった。

僕にはわかる。この試合、まだこれからだ。
そしてそれは口に出さなくても、なぜか翔太さんにも通じているような気がする。不思議だ。ボートは本当に不思議だ。


阪和大が1200mと通過する頃。
"差を広げていたはずの桂翔太の背中が心なしか大きくなってきている。"
六甲大のストロークである剛田は、そのことを敏感に察知していた。

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