Drive!! #68 ボート X 小説
インカレ前日の練習。杉本は手応えを感じていた。
今までで、一番艇が伸びていた気がする。そしてそれはみんな感じているだろう。まだそれについては話していないが、みんながそう感じていることは分かる。間違いない。今日の漕ぎは最高だった。
数ヶ月前まで、ボートをやめようと思っていた自分が、いつの間にかボートの虜になっていると思った。
今日だって、試合の前日だからといって軽めの練習で終わったが名残惜しい。
"もっとこのメンバーで、エイトの上にいたかった"
と思ったとき、明日からの試合で、負けたら終わりなんだということにも思い至る。
***
船台でオールを外していると翔太さんが、肩をがっしり掴みながら、
「今日の漕ぎ、良かったぞ。後ろから全員のオールが見えるけど、お前のブレードは、見違えるようだった。」
お礼を言いながら、会釈を返す。ニッコリと笑う翔太さんの顔が好きだ。
みんなからはにやけ顔っていじられたりもしているけど。
でも間違いなく、この人なんだよなと思った。俺がボートをやっている理由は。六甲戦で翔太さんとペアを組んでいなかったら、俺のボート人生は、あそこで終わっていたと思う。
同期の井上と岡本に劣等感を感じたまま、逃げるようにしてボートとお別れしていたはずだ。変な思い込みで、自分は被害者だと思って人のせいにしていた自分が情けないと思えるのも、それから練習して自信がついたからだと思う。
自分は大きくは変わっていない。ボートが少し上手くなっただけ。
でもボートが上手くなっただけなのに、自分を少し肯定できるような気がするのはなぜだろう。
エイトに乗ってからも、しんどいことだらけだった。最初は艇速についていけなくて、ブレードが全然水を掴まず、空回りして漕いでいた。明らかに俺が2番を漕いでいることで、ストサイの支えが足りず、バランスを崩していた。
でもこのメンバーは誰ひとりとして俺を責めなかったし、クルーの問題としてそれを扱う。そこには新参者としての俺を気遣う配慮ではなく、当然のこととしてそう考え、行動する空気があった。
俺がイメージで捏造していた"意地悪で、セカンドクルーの気持ちを顧みない人たち"なんてどこにもいなかった。
本当にみんな優しくて、強い人間ばかりだった。それに影響されて、少しは自分もマシな人間に慣れているだろうか。
川田さんの号令に合わせて艇を担ぐ。艇置き場まで歩いていく。反対サイドの斜め前を持つ翔太さんの背中が見えた。
翔太さんのボート人生は続いていく。来年から社会人選手だ。
でも俺とのレースは明日からのインカレが最後だろうと思った。
「阪和大学」と並ぶ文字が、もうすぐ「NYT東日本」に変わるのだ。
日本の大学生のボート選手で、本当に限られた人しかその一員にはなれない。俺とは違う世界に行ってしまう。
"翔太さんに褒められたくて、頑張っているんだな"
今まで気恥ずかしいような気がして認めてこなかったが、今それがはっきり分かった。
"この人がいなくなったら俺は。"
という言葉が頭をよぎったけど、まだ考えないでおこう。
明日から最高の舞台で翔太さんとレースに出られる。
そのことをまず噛み締めるべきだろう。
艇を置く。最後の練習がもうすぐ終わる。というより水上で行う練習という意味では終わっている。後片付けが残っているだけだ。こんな感じで、大事な時間って、ちょっと手遅れになってから気がつくのだろうか。
いつもは疎ましいと思うオールを拭いたり、シートを外してレールの黒い汚れを拭う動作を、何かの遅延行為のようにゆっくりと丁寧に行った。
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