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Drive!! #55 ボート X 小説

インカレのレースを2日後に控えた昼。みんなが昼寝をする中、橋本は布団の中で、小説を読んでいた。
もともとは静かな部屋でないと集中して文字が追えず、人がたくさんいるこの環境が得意ではなかった。土日は、わざわざ朝練と晩の練習の間は、電車で往復2時間かけて長居公園の近くにある下宿に帰って過ごしていた。

でも今は、周りに人がいながら読書するのも苦ではなく、むしろ好きだった。本の世界に没入して一息をつくと、いつも一緒にボートに没頭している仲間がいる。誰かが音を立てるのもぜんぜん気にならないし、日常と非日常の距離を感じるこの空間がとても好きだった。
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どんな環境でも、時間が経てば慣れるものだな。あっという間に時間が経った感じで、いつの間にか俺も3回生になった。

それにしても体育の時間以外に、ランニングもろくにしたことなかった自分が、明後日はインカレに部の代表として出るなんて。案外、人生何があるかわからないものだ。

布団に寝転んで薄い文庫本の世界に戻る。主人公が鼠と呼ばれる男とバーでビールを飲んでいる。何度も読んだ作品だ。29才の男が学生時代を回顧するその物語は、明確な社会性的メッセージを帯びているわけでも、最後にどんでん返しでアッと言わせる展開があるわけではない。むしろ淡々とした語り口で、さらりと読み終える。でもその後に、心に何かが残る。

その感覚が好きでこの本を何度も読んで、その度に主人公の男の記憶を辿った。

自分もいつか大人になった時、今日のことを思い出すのだろうか。
離れた位置から見たこの期間、自分のボート部で重ねてきた時間にも、何かしら意味や教訓めいたものを感じるのだろうか。
渦中にある今はぜんぜん想像もつかないけど。

聴き慣れたみんなの寝息の中、時々誰かのスマホが揺れて、短い振動が起きる。午後の練習まであと2時間。少しだけ眠ろうと思った。

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