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【第2号】考える時間の大切さを考える

1月某日|変化や心情のはなし

今年からエンターテインメントに触れたくてアマプラの会員になった。だれかが手塩をかけてつくった"作品"に触れて、どんな意図や意味があるのかを考えたくなったからだ。たぶんこの動機で会員になった人は少ないんじゃないかな。純粋に作品を観たい方からすると気色の悪い観方なのかもしれない。

この日、見たのはV6の26年間の集大成となる全国ツアー「LIVE TOUR V6 groove」。この世の中だからマスク着用や歓声、声援が制限されているなかメンバーの名前や顔写真がプリントされているうちわやメッセージを掲げているファンがほとんど。あらためて関心と尊敬の念をいだく。セットリストは最近の曲をはじめ、わたしが学生時代から聴きなじみのある曲。懐かしさがあった。コンサートの中身はこれくらいにして印象的だった場面を記す。

岡田くんが曲の間奏で「上の方も見えてるよー」と投げかけた場面。この言葉はきっとファンから「こっち見て!」とか「おかだくーん」とか声援があってからの返答として投げかける言葉のように思う。だけど、わたしにはファンの声は聞こえず、岡田くんがいきなり発したように思えた。これってきっと制限があるなか、声を出せないファンの気持ちを感じ取って、それにやさしく応えてあげているんだろうなと思った。

普通に暮らしててもこういった「言われてないけどなんか感じ取って話しかけるとき」ってあると思う。相手が普段の様子とちがうとき、なんだかさみしそうなとき、しんどいときなど。目の前にいる人の変化や心情を100%読み取るのは難しいけど、気づける人になりたいですね。


1月某日|推しのはなし

わたしの推しのひとりに西村佳哲さんがいる。リビングワールドの代表で、つくる・書く・教える領域で働くプランニング・ディレクター。本も書いている方。会ったことはないんだけど、わたしが見たい世界にいるような感じがして勝手に推している方です。

昨年、わたしには自分のこれからの人生を見つめ直す期間があって、その時に久しぶりに西村さんの本を読み返しはじめた。秋くらいから肌身離さず持ち歩いている1冊があって、時間があるときは浴びるように西村さんの言葉に触れている。

本のタイトルは『自分をいかして生きる』。内容についてだったり、感想を書いたりするのはなんか違うと思うので割愛するが、いまわたしは西村さんに会いに行ってお話をしたくなっている。会いに行っていいですか。


1月某日|言葉の引き出し①のはなし

友達Aから珍しく贈り物があった。友達Bから「うれしいでしょ?」と聞かれたわたしは「うれしかった」と答えた。だけどここで思ったことがある。それはただ単に「うれしい」と一言だけで済ませられる感情ではなかったということ。

感情って一言で表現できるんだけど、それだけで済ましたくない自分がいるときが多い。一言だけで収まらないそれ以上の気持ちを持っている自分がいて、外に表現として上手に出すことができないということ。感情のことばの引き出しはたくさん持っててもいいな。


1月某日|言葉の引き出し②のはなし

仕事柄、言葉の引き出しをたくさん持つようにしている。前日の一件があって、感情のことばについて考えた。日常的に参考にしているのはNVCの感情リスト。

NVCとは非暴力コミュニケーションのことで、1970年代にアメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ローゼンバーグ博士によって体系された共感を持って臨むコミュニケーションの方法。感情リストはそこで活用されている。

前日の話にもどす。自分のなかに湧き出た感情が自分にうまくフィットしないときがある。この感情リストを見てもいまいち腑に落ちなかった。なので自分で自分に湧き出た感情が当てはまるかどうか、当てはまらなかったらそれでもいいと思いながらオリジナルの感情リストを作った。辞書や本を見ながらかき集めて約400個。A4両面にまとめた。

今年は自分自身に向き合いたく手帳に日々の湧き出た感情を場面とともに記している。だからオリジナル感情リストはここに挟んで持ち歩いています。かなり便利です。


1月某日|社交性のはなし

普段、メガネをかけている。茶色いボストンタイプ。髪質は少し癖があり太め。日によっておかっぱか七三でいる。身長は170センチに満たないが、水泳をしていたため肩幅は180センチ以上の方と同じくらいある。足は23センチ。分かりやすくいうと男性トイレのマークのようなフォルムをしている。

この表現はわたしがワーホリでシドニーの語学学校に通っていたとき、元NSC(吉本のお笑い養成学校)の友人に実際に言われたことです。フォルムは横に置いておいて本題に移ります。

仲良くなった人のほとんどから言われるのは「初対面の時は話しかけにくかった」という言葉。わたし自身、知らない人が多い場所では下を向きながら歩き、あまり目を合わさないようにしている。人となりが分からないと話そうという気持ちが湧いてこないタイプです。だからこそ話しかけにくいと思われても仕方のないことだと思う。

この日と数日前は「話しかけやすいですね」と言われた。何年ぶりだろうか。2023年のわたしは以前とちがうみたいです。街で見かけたら気軽に話しかけてください。人と話すのは好きなので。


1月某日|枠外が楽しいのはなし

わたしは時々、講師をしている。仕事のスキルやコミュニケーション、ファシリテーションについて。人前に立って教えるようになって10年弱になるだろうか。当初は一方向で教えて、質問があれば答えて進めるザ講師って感じ。いまはこのスタイルに疑問を持っている。

理由は教えるだけだと無責任なんじゃないかと感じはじめたから。参加者はわたしが話した内容をメモして帰る。それを参考に職場や家庭で実践するだろう。だけどこれで果たしてこの人は身についたのだろうか。実践したあとに疑問や違和感を持つときが来るんじゃなかろうか。

教えるとき「AのときはBをする」などの公式的な進め方をする。そうなると参加者はAのときはBをすれば問題ない、間違いない、すべてが自分の思い通りに進むという枠に収まってしまうのではなかろうか。そうなるとAと似たCになったときBは使えないものになってしまうのではなかろうか。

なにがいいたいかというと公式的な教え方だけをしてしまうと教わる側は、その枠内に収めようとしてしまいそれ以上考えなくなるのではないかと申し訳ない気持ちになる。以前は受講したあとに参加者からフィードバックをもらっていなかった。仲良くなった方以外は。

いまも講師をしていて思うのは、講座やセミナーの類で大切なことは教わったスキルを参加者が自分なりに咀嚼して応用させていく方が本人の可能性が何倍にも膨らむのではないかということ。こう思うようになったのは1年前。

それからのわたしはなにかを教えるだけではなく、どんな場面でどんな人に対して、どういった活かし方ができるかを講座のなかで話し合う時間を設けている。教わるの先には使うがある。ぜひその途中に考える時間の大切さを考える必要性も伝えていきたい。

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