見出し画像

平和の神は日本にいる(上)

もともと日本は、「大和の国は神ながら言挙げせぬ国」というように、理論とか主義、真理、正義などについて、いちいち理屈を言わない国柄でした。

ですから神道には経典も教義もないし、祈りの言葉すら決まったものはありません。
神道はただ清いか穢れているか、不浄であればお祓いをして浄めよう、という心の宗教、言葉の要らない宗教だといえましょう。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
(新約聖書 ヨハネ1-1)

一方のユダヤ・キリスト教では、言葉の神を信じるわけですが、言葉は色々な解釈ができるので、必ず誤解と対立が生れます。
それに異言語に訳すとき、あるいはまた、日本の憲法でも夫婦間にしても、言葉はいろいろに解釈できるので、正確には通じません。

漱石が「智に働けば角が立つ」と言ったように、一神教の人々が「背信だ異端だお前の神は邪教だ」などと理屈を言っていると、喧嘩は一向に終わりません。

でも、私たちの国は八百万の神々がいる多神教ですから、いくつもの考え方が並存しています。
十人十色と言うように、人間はそれぞれ違う考えや感情を持っていますから、この世界を丸く治めるには、日本式の多面的な考え方でないと無理でしょう。

G7の国々は、みなキリスト教で、日本一国だけが神道ですが、ここに“世界平和のヒント”があると思います。

世界の人々は、もう理屈や言葉に疲れ果てています。
ですからここで日本式の、言葉の要らない心で感じる平和の宗教の出番ではないかと思います。

伊勢神宮を参拝した西行は真言宗の僧侶ですが、理屈を言いませんでした。

何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
西行『西行法師歌集』

※西行が伊勢神宮に参拝した際に詠まれた歌。
「どういう方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで一杯になり、涙がこぼれてきます」

お読みになって頂きありがとうございます。宜しくお願い申し上げます。