原則に基づいた嘘は要か否か。
こんにちは。4月になりました。人事の仕事をし始めてちょうど一年。ずいぶんと大人になりました。嘘です。
優しい嘘。
先日、東野圭吾さんの小説「嘘をもうひとつだけ」を再読しました。と言うか、加賀恭一郎シリーズを読み返しているわけなのですが。その短編集のなかの「ある嘘」がとても心に響きました。嘘はついてもいいのか悪いのか。ついていい嘘は本当にあるのか。そんなことをふと考えてしまいました。
この書籍のなかでも、おこなった行為について正直に打ち明けて詫びようとする心と、なかったこととする心、二心で揺れ動くシーンがあります。特に切迫した場面ややむにやまれずおこなった事柄は、どこに正しい判断があるのかさえ分からなくなるものですね。優しい嘘とはまさにこういうこと。
7つの習慣における嘘。
最近、自分自身のEQ(Emotional Intelligence Quotient、心の知能指数)についてサンプルテストを実施しました。そのなかでも繰り返し嘘について回答する場面がありました。多分誰しもまったく嘘をつかずにここまで生きてきた社会人なんていない。だから問題は自分自身の嘘との向き合い方です。
7つの習慣でこの嘘という言葉は合計4回出てきます。いずれにおいても嘘に対する批判です。もちろんベストセラーになった書籍でもありますから大手を振って嘘を肯定するわけにはいかないでしょう(笑)個人的にも特段響いてくるのが、元国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏の言葉ですね。
原則中心の先にある嘘。
note前々回の「GIVERと7つの習慣。」でも書いた内容に近いですが、人に希望を与える嘘はときには大事になる気もします。そこで重要になってくるのが自分自身のパラダイムなのかもしれません。その嘘はなんのためにつくのか。その嘘は誰のためにつくのか。その嘘はその後に何をもたらすのか。
7つの習慣にある、人間を人間たらしめる能力の良心。ヴィクトール・フランクルの言う「心の奥底で善悪を区別し、自分の行動を導く原則を意識し、自分の考えと行動がその原則と一致しているかどうかを判断する能力」。まさしく思考・行動が原則中心の先にある嘘。正論だけは駄目なのですよね。
だからと言って、すべての嘘が原則に基づいていたとしても、自分自身の良心の呵責に苛まれることになるのは間違いないです。そして、ついていい嘘が果たして相手にとって助けになっているのかどうかも、その相手次第なわけです。それでも人は、だれかのために嘘をつくことは止めないでしょう。
それほど強くない。だからこそ。
スティーブン・R・コヴィー博士は7つの習慣の最終章でこんな言葉で記しています。
本当にありがたい言葉です。人間はそれほど強くない。だからこそ自分の原則(信念)を持ち、その原則や信念に従って生きていかなければならない。4月であり、新たな仲間ともつながる今だからこそ意識していきたいですね。
参考に。
最後に。
加賀恭一郎シリーズを読み続けようと思っていたら違うジャンルの本に浮気してみたり。悠々自適読書生活を過ごしています。こんなだから積読本がまったく減らないのだ・・・。
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