「感情」を持ったAIは情報と記憶で作れる 前半 ~藤井聡太はニュータイプである~

<まえがき> 

以下に記述する内容は、2023年の秋に、理科系の大学生を対象にした講演会のために作成した原稿になります。

これを前・後編二つに分けて掲載したいと思います。 

前半は、無敵の強さで将棋界の天下統一を果たした藤井聡太さんの思考法について「脳内将棋盤」というキーワードを基にして考察したものです。

将棋という分野でAIは、5年程前に人間の能力を超え、今もその進歩は止まることを知りません。

グロテスクなまでに強くなってしまった将棋AIと、将棋を職業とするプロ棋士たちは、共存できるのか、できるとしたら、どのような方法なのか。
プロ棋士という職業の地位が脅かされ、仕事を失うことはないのか。

将棋の世界は、これから様々な分野で起こる“AIシンギュラリティ”とどのように向き合うのかという命題の壮大な実験場になっています。 

後半は、「メディアとは感情である」という持論を展開しながら、メディアからみて、「情報の受け手」の感情を重要視する必要に迫られること。

その理由を突き詰めると、実は情報の受け手の「感情」と「記憶」が等価に見えていることに言及します。

その考え方を発展させると、メディアから発信された「情報」と、受け手に残っている「記憶」、その双方のビッグデータが得られれば、「感情AI」(感情を実装したAI)を作ることができるのではないかという可能性について論じています。

わたしは、テレビというマスメディアで30数年にわたって、番組制作の最前線で視聴者と向き合いながら仕事を進めてきました。

番組の発した情報が視聴者の感情にどれだけ強く訴えかけられるのか、それは視聴率競争に身を置いた瞬間から、襲われる感覚です。
視聴率を取るという仕事の目標は、視聴者の感情をどれだけ揺さぶることができるのかという命題に置き換えることができるのではないのか、そんな考えにたどり着きます。 

自分たちが発信した情報が100万人単位の視聴者に届いたときに、どのような感情に見舞われ、それはどの程度の強さなのか。
もちろん、視聴者は皆一様に同じ感情を抱くわけではありません。
多くの視聴者が襲われる感情とその「強度」を把握したうえで、様々な立場を慮り、その多様性を理解した上で、その分布を正確に推測すること。

それこそが、マスメディアという多くの人に情報を発信していく仕事にとって、最も重要な資質であり、その本質は情報の受け手の「感情」をどれだけ正確に把握できるか、という一言に集約されます。 

感情を刺激することによって、情報の内容は視聴者により強く印象づけられ、メディアとしての影響力がより大きくなります。
番組としての価値が高まり、スポンサーからは高く評価されます。
テレビ局として、より多くの利益につながることになります。

多かれ少なかれ、情報を発信することを生業とするメディアの利益構造は、そのような論理に支えられており、それが広告型メディアのビジネスモデルになっています。 

人間の記憶の仕組みが、感情をどれだけ刺激されたかということと密接な関係にある以上、どのメディアも逃れられない宿命と言えます。 

繰り返しになりますが、情報の受け手の記憶にどれだけ強く刻まれるかということは、その情報を発信したメディアの価値と直結しています。
その手法として、受け手の感情を刺激するという戦略を取ることになります。
メディアの間において、基本的に情報の受け手の感情をどれだけ強く刺激することができるのかという競争が始まることになります。

人間の感情記憶には、密接なつながりがあるからです。 

メディアの側から見ると、「感情」と「記憶」は等価にいうことになります。
印象に残り、記憶に刻み込む方法は、今のところ感情に刺激すること以外に見当たらないからです。 

人工知能(AI)は、人間の脳がどのように働くのかという仕組みを解析し、それを真似ることで発展してきた歴史と言えます。

そのことを踏まえて、以下のようなモデルを提示したいと思います。

メディアが発する情報という入力に対して、感情という関数が作用することによって、記憶という形で定着(出力)する。

そのようなモデルを考えたときに、メディアの情報(入力)情報の受け手の記憶(出力)、その二つがビッグデータとして得られたとしたら、作用している「感情」を実装したAIが作成できるのではないか。 

曖昧でつかみどころのない「感情」というものを、その二つを結び付けるブラックボックスとして定義するほうが、感情という概念を理解する上で、簡便で役に立つのではないか。

これらを仮説として提示したものです。 

では、まずは前半の内容から始めたいと思います

 

 

これからお話しするテーマは、

メディアとは感情である」ということになります。 

わたくしは、今からおよそ40年前、早稲田大学理工学部物理学科というところで、物性や素粒子といった勉強をしていました。

きょうもこの教室に来るまでの道のり、校舎全体から、どこか理科系の匂いを感じながら歩いていました。
わたしも皆さんと同じ理科系ということで、ぜひ仲間意識を持って聞いていただければと思っています。

仲間のほとんどは大学院には進んだり、企業の研究職に就いたりする中、当時としては非常に珍しいテレビ局というところに就職しました。
1986年から2022年まで36年間、フジテレビで報道や情報番組といったノンフィクション、実際にあったことを事実として伝えるという分野で、ディレクターやプロデューサーという仕事をしてきました。
情報番組や報道、ニュースの経験が長いので、ついつい最も旬な話題に飛びついてしまいます。
まずは、最近のトピックスとして藤井聡太さんの大活躍から始めたいと思います。 

わたくし実は、フジテレビの将棋部に在籍していて、報道局でニュースの責任者だったにも関わらず、藤井聡太さんに関するニュースの原稿は、わたくしが自ら書いていました。
通常は責任者ということで最終チェック役なのですが、多少なりとも将棋に詳しくないと、何がニュースとして新しいのか、どのようなトピックスが適しているのかという視点で情報を選び、それを文章にしてまとめて伝えることなんてことはとてもできません。
しかし自分で書いてしまうと、適切なチェック役がいないのです。
絶対に間違えるわけにいきませんから、結構、緊張していました。 

そんなこともあって、今から3年前、藤井聡太さんを直接取材できるインタビューの機会を得ました。
誰もが行きたいと希望する中で、ニュースの責任者という立場をフルに活用して、ゴリ押ししたものです(笑)。
満を持して、カトパンこと、加藤綾子キャスターとともに東京の千駄ヶ谷にある将棋会館に乗り込みました。 

実はテレビ朝日系列の愛知の地元局が、中学生でプロデビューした頃から幾度となく藤井聡太さんのインタビューを撮って放送していたのですが、まだまだ子どもっぽい面や青年らしい照れたような笑顔が見え隠れしていて、微笑ましい良い内容でした。
我々も、そういった素顔が垣間見られるような、例えば視聴者が、「あんなに将棋は強いけど、素顔はまだまだ18歳の少年なのね、安心した」というようなインタビューを目指していました。

その日は、史上最年少でタイトルを獲得したということで、インタビューの申し込みが殺到したことから、取材対応の日として、朝から晩まで10社以上のインタビューが予定されていました。
取材は午後二時からで、その日の7~8番目の取材だったと思います。
各社のインタビューを重ねる中で、将棋界を代表するという立場になったという自覚がどんどん強くなっていったことは、容易に想像がつきます。
笑顔が少ない硬い表情の受け答えが続き、ガッチガチの鎧を纏った、非常に表面的なやりとりに終始した、とりつく島のないインタビューになってしまいました。
もう少しなんとかならなかったものかと、大いに反省したことを思い出します。 

わたしは、小学校の頃から将棋を指すことも見ることも好きで、半世紀以上にわたって将棋の世界をウオッチしてきました。
升田VS大山、伝説の名勝負の数々、中原VS米長のライバル対決、谷川浩司が史上最年少21歳での名人獲得…えっ、知らない?
最前列の皆さんは、ポカーンですね(笑)

 それでは、羽生善治さんはどうです?
今から27年前の1996年に七冠独占、彼が公文式のCMに出演すると、入る子どもたちが急増したそうです。
今に至るまでおよそ30年以上にわたって活躍を続け、最近では(2018年)(七大タイトルの永世位を獲得して)、国民栄誉賞に輝きました。 

しかし、そんな将棋界のレジェンドたちと比較しても、今の藤井聡太八冠の強さは突出しています。 

将棋の世界では、6割5分勝てる棋士は一流、おそらく超一流と言ってもいいと思います。
ちなみに日本一になった阪神の今年のペナントレースの勝率はたったの6割1分6厘です。
長期にわたって勝負を繰り広げる世界において、6割5分という勝率は、その時代を代表する王者になる資格があると言えます。 

あの強い羽生さんは7割を超える勝率で、当時あったタイトル7つを、すべて獲得し独占しました。
すなわち7割勝てれば、その時代を完全制覇できるのです。

 そんな中、藤井さんの年度別成績を見てみしょう。
デビュー以来、一度も8割を割っていないというのです。
通算勝率は8割3分超え、まさしく驚異的な勝率、そんなに強い人は、将棋の歴史上これまでいませんでした。
(あえて比較するとすると、「常勝木村」と言われた木村義雄14世名人の全盛期でしょうか)
タイトルに挑戦してから、すべてのタイトルを獲得し、そしてそのタイトルの防衛戦も今まで一度も負けていません。
現時点で19連覇
すなわち19回連続でタイトル戦を勝ち続け、そして今も継続中です。
圧倒的な強さで八冠を達成し、タイトルを独占してしまいました。
「勝敗」という要素に対して、興味が失せてしまうような状況です。

それでは、このあとどうなるのでしょうか?

例えばトーナメント戦なら、勝率8割超ということであれば、一発勝負ですので、負ける確率は2割近くもあります。

しかしこの後、藤井さんの対局は、基本的には五番勝負や七番勝負で争われるタイトルの防衛戦ということになります。
(とくに大きなタイトルである、「名人戦」や「竜王戦」をはじめ「王将戦」「王位戦」の4つは七番勝負です)
例えば七番勝負というのは、わかりやすく言えば、プロ野球の日本シリーズと同じです。
先に4勝すれば勝利、藤井さんからみてタイトル防衛ということになりますが、一回も負けることが許されなかったトーナメント戦に対して、逆に言えば3つも負けることが許されることになるのです。

では、勝率8割の棋士が、七番勝負で負ける確率を計算してみてください。皆さん、理科系ですから、計算は得意でしょう。

えっ、面倒で、そんなこと今更やりたくない?
しょうがないなぁ~
わかりました、わたしが代わりにやっておきましょう。 

4連敗   0.2×0.2×0.2×0.2=0.0016
     1通り
      ●●●●
1勝4敗  0.2×0.2×0.2×0.2×0.8=0.00128
     4通り 0.00128×4=0.00512
      ○●●●●
      ●○●●●
      ●●○●●
      ●●●○●
2勝4敗  0.2×0.2×0.2×0.2×0.8×0.8=0.001024
     10通り 0.001024×10=0.01024
      ○○●●●●
      ○●○●●●
      ○●●○●●
      ○●●●○●
      ●○○●●●
      ●○●○●●
      ●○●●○●
      ●●○○●●
      ●●○●○●
      ●●●○○●
3勝4敗  0.2×0.2×0.2×0.2×0.8×0.8×0.8=0.0008192
     20通り 0.0008192×20=0.016384
      ○○○●●●●
      ○○●○●●●
      ○○●●○●●
      ○○●●●○●
      ○●○○●●●
      ○●○●○●●
      ○●○●●○●
      ○●●○○●●
      ○●●○●○●
      ○●●●○○●
      ●○○○●●●
      ●○○●○●●
      ●○○●●○●
      ●○●○○●●
      ●○●○●○●
      ●○●●○○●
      ●●○○○●●
      ●●○○●○●
      ●●○●○○●
      ●●●○○○●
 0.0016+0.00512+0.01024+0.016384=0.033344

4連敗、1勝4敗、2勝4敗、3勝4敗に分けて、それぞれ最後は負けて勝負が決まるという条件のもと、場合に分けてひたすら計算するのが、実は一番早いし正確です。
受験数学でいう「必殺!しらみつぶし」というやつです。
四十数年前、わたしも皆さんと同様に、ひたすら数え上げました。

負ける確率は わずか3.3344%
勝つ確率は  なんと96.6656% 

低めに見積もった勝率8割という強さでさえ、七番勝負での勝率は、およそ97%にまで跳ね上がるのです。

もちろん対戦相手との相性もあるでしょうから、絶対ではありませんが、現状でタイトルを奪われるのは、よほどのことと言えます。 

プロを目指す将棋の世界は、「天才」たちの集まりと言われています。
日本中から将棋の天才と言われる少年・少女たちが集まり、プロ棋士養成機関である「奨励会」という虎の穴(古い!)のような組織で、苛烈を極める競争が行われ、そこをある年齢に達するまでに勝ち抜いた天才の中の天才だけが、ようやく四段というプロ棋士の称号を得られるのです。
四段からは原則として給料がもらえるプロ棋士ということになります。
活躍できるかどうかは別にして、一生プロ棋士として食べていけるのですが、その一歩手前の奨励会三段は、給料もなく生活や特にその後の将来には何の保証もありません。
しかも原則として26歳の誕生日までにプロ棋士になれない場合は、奨励会を退会しなければならないのです。
将棋にすべてを賭けたものの、奨励会で年齢制限に達し、プロになれず夢破れていった物語を描いた小説やドラマは、ジェームス三木さんの「煙が目にしみる」をはじめ、数多く存在しています。

三段と四段、たった一段ですが、天国と地獄のような差です。
どんなに名のある棋士も、プロになれると決まったときの喜びは一生忘れないと口を揃えるくらいです。
この過酷な競争こそが、プロ棋士のものすごいレベルを形作っている原動力といっても過言ではありません。
もうお分かりでしょう、プロになった棋士は全員「天才の中の天才」なのです。
プロの四段とアマチュアの四段では、その実力差は比べようもありません。
アマチュアの四段は、大体プロの7~8級、もっと下かもしれません。 

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という言葉をご存じでしょうか?

香木に使われる栴檀(せんだん)という樹木は、双葉が芽生えたときからすでに芳しい香りを放っている、すなわち、のちに大人物になるような人間は、子供のときから人並み優れた素質を見せることを表現した言葉です。
将棋の世界では、この言葉が例外なく当てはまるのです。
この「虎の穴」のようなプロ養成機関である「奨励会」を中学生の段階でくぐり抜けた、天才の中の天才でも、特に早熟な天才、中学生プロ棋士がこれまでに5人います。

最初の中学生棋士は、
ご存じ「ひふみん」こと加藤一二三。
二人目が、名人獲得の史上最年少記録を、藤井さんに破られるまで保持していた谷川浩司。
三人目が平成の時代に王者であり続けた羽生善治。
四人目が、藤井さんに次々奪われるまで、常にタイトルを保持していた、現役最強の一人渡辺明。

そして五人目が藤井聡太八冠になります。
誰もが将棋の歴史に名を残す棋士ばかりです。

以前は、将棋のプロ棋士になるということに対して、偏見も多かったと聞きます。
才能があっても、親や周囲に反対されて断念するケースも多かったようです。
遊びのようなゲームで飯が食えるはずがない、そんな時代がずいぶん長かったのです。
そういった事情を考えると、後の時代に行くほど、親の理解も深まり、周囲に応援される中で、本当に才能豊かなものが日本中からもれなく集まり、さらに競争は激化しているはずです。
そんな中で、史上最年少の14歳2カ月でプロになった藤井さんの早熟な天才ぶりは、歴代の中学生棋士の中でも突出しているのかもしれません。

 それでは皆さん、ここまで聞くと、藤井聡太八冠が、なぜこれだけ突出して強いのかという理由を知りたくありませんか?
理科系の皆さんへのお話しですから、科学的に検証する姿勢として、一つの仮説を立てて、それを検証していきたいと思います。

ではその仮説ですが…
「藤井聡太は『ニュータイプ』である」
ということを提唱しましょう。

ここでいう「ニュータイプ」とは、機動戦士ガンダムでいうところの「ニュータイプ」です。
どなたか、「ニュータイプ」という言葉を説明していただきたいのですが…

分かる方、どなたかいませんか?

(科学の進歩などに合わせて、人間が新たな能力を獲得した、超能力者みたいなもの)

おいおい、科学的って言っていながら、アニメかよと、心の中でつぶやいた、そこのあなた、あなたは、きっと十数分後に、確かにそうだよな、なるほど、そういうことかと納得してくれるはずです。

では、彼の強さを一つずつ検証していきましょう。

藤井さんの強さを支えるのが、圧倒的な読みのスピードだと、対局したプロ棋士たちが誰もが口を揃えています。
とにかく思考のスピードが速いということが、彼の圧倒的な強さを支えていることは、間違いないようです。

例えば今年4月の名人戦第一局、藤井さんが1時間47分という長考に沈んだその内容を、後のインタビューで答えてくれました。
皆さんが長えなぁと感じる授業の一コマが1時間半。
手抜きの教授だと、最初と最後の15分ずつは、流すでしょうから実質1時間(笑)
これだけ長い時間、しかもたった一つの局面について、ほとんど休みなく延々と考えることが出来るという集中力を想像してみてください。
それだけでも驚きでしょうが、その考えていた内容が、関係者の度肝を抜きました。

実戦で進行した32手後の局面を、このとき想定していたというのです。
32手後ですよ、32手後。
一つの局面で分岐がもし2通りあるとしたら、その考える選択肢は全部で2の32乗になります。
さぁ、大体のどれくらいの数字になるでしょうか?
こういう場合の常道として、まず2の10乗が1024というのは、覚えておいて損のない数字です。
これを大体1000倍として概算します。
すると2の30乗は、3×3でゼロが9つ、およそ10億になります。
32乗ですから、残りは2乗分で4倍、だいたい40億ということになります。
正確な数字は(2の32乗=42億9496万7296)ですが、ここではおおよその数字をつかむことが重要になりますから、この方法は覚えておいて損のない方法です。

もちろん、すべての選択肢について32手先の最後までたどらないでしょう。
途中では、一つの手に一通りの対応しか考えられない局面も多くあることでしょう。
逆に4~5通りの対応も考えられる局面もあります。
さすがに40億はあり得ない数字だと思いますが…
どれだけ多くの選択肢について頭の中で考えたことでしょう
数千、数万? 数百万? 数千万? ひょっとして数億?
数えることもできないでしょうし、想像もつきません。

きっと本人に聞いても、その数は分からないでしょう。

ただ一つ、常人離れしたものすごいスピードで、頭の中が回転し続けてことだけは確かです。
先ほどは長いと言いましたが、逆にわずか1時間47分で、これだけ先の局面までたどり着いたとも言えます。

インターネットでこの将棋が中継される際に解説を務めていた、名人獲得経験もある佐藤天彦九段は、「この32手後をイメージすることは相当難しい、他のプロではできないと言ってもいい」と語った上で、
「現役のプロ棋士、だいたい160~170人いるんですけど、読みの量と質が現役のプロ棋士を現時点では凌駕(りょうが)している」と他の棋士との圧倒的な違いを指摘しました。

先ほど中学生でプロ棋士になり、早熟の天才の一人に挙げた渡辺明九段は、藤井さんから次々とタイトルを奪われてしまいましたが、最も長い時間藤井さんと盤を挟んで向かい合った棋士の一人です。
すなわち、一番彼の強さを体感していると言えます。

渡辺さんは、藤井さんの強さについて「思考回路が人の10倍の速度で動いている」「他の棋士が1時間かかるところを、藤井さんは30分でたどり着いているのではないか」と答えています。

将棋の対局というのは、「持ち時間」という制限時間内で指し手を決めなければなりません。
そんな条件の下、性能が2~10倍のコンピュータと計算競争をするというのは、絶望的な差だと言わざるを得ません。

では、その棋士は頭の中でどうやって考えているのか、もう少し詳しく覗くために、ここで一つのキーワードを提唱したいと思います。 

そのキーワードは「脳内将棋盤」というものです。

プロ棋士には全員、特殊な能力が備わっています。
それは「脳内将棋盤」というもので、目の前に将棋盤と駒がなくても、頭の中で同じように、いつでもどこでも、将棋について考えることが出来るのです。
ちなみにですが、運転しているときは、非常に危ないので、絶対思い浮かべないようにしているそうです。
脳のリソースを将棋の思考に集中してしまう行為ですから、他に何も見えなくなるということです。
羽生善治さんは、以前は運転していましたが、クルマの運転そのものをやめてしまったくらいです

よく数学者が歩きながら問題を考えていて、ドブにはまったという逸話がありますが…。
藤井聡太さんもインタビューで、「将棋のことを考えながら歩いていて、ドブに落ちたことが2〜3回はありました」と答えています。
一度頭の中で将棋のことを考え始めると、それだけで頭がいっぱいになってしまうようです。
一般的に集中することが苦手な幼い頃から、凄まじいまでの集中力を持ち合わせていたようです。
幼稚園のときの藤井さんが、出題された詰め将棋を前にして「考えすぎて頭が割れそう」と答えたのは有名な話です。

将棋盤というのは、9かける9の81マスあって、それぞれの場所にアドレスが打ってあります。
先手からみて右上が原点になり、右から左に1~9、次に縦に上から下へ一~九
この数字を横縦の順番に重ねて、駒の行き先として表現します。
例えば、7七の歩が7六に動く場合は、「7六歩」といった具合です。

将棋がかなり強くなると、将棋盤を使わず、この符号を口にするだけで将棋を指すことができます。
これを「目隠し将棋」といいます。
この目隠し将棋が出来る理由は、脳の中に将棋盤があって、符号を聞きながら、駒を動かして、その局面を再現することが出来るからです。

ちなみにこれは自慢ですが、わたしもフジテレビの将棋部時代、教わっていたプロの方からはアマ3段くらいでしょうと言われたことがあって、この「目隠し将棋」を最初から最後までなんとか指すことが出来ました。
しかし、プロ棋士たちとは大きな違いがあります。
実際に盤を前にしているときに比べて、とんでもなく弱くなります。まるで初心者のような見落としを連発します。
しかし、プロの棋士たちは、目の前にある将棋盤があるときと、変わらないほど明瞭でクリア、その指手のレベルも変わらないというのですから、これはものすごい能力です。

プロ棋士が対局でよく目をつぶったり盤から視線を外して、上を向いたり、下を向いたりしながら考えているのを見かけますが、あれは「脳内将棋盤」を使って考えているのです。
当然のことながら、先の先の先を考えながら指すプロ棋士が、必死になって考えている局面は、目の前にある盤面から何手も進んだ局面になります。
ですから、目の前にある将棋盤とは別の局面を脳の中に思い浮かべて、そちらで考える必要があるのです。
小さな頃からそういった訓練を積み重ねた結果、目の前にある盤を目で見ているのと同じくらい明瞭な将棋盤が、脳の中に生まれるのです。

この「脳内将棋盤」は、これだけで脳科学の論文が一本かけそうなくらい面白いテーマです。
例えば、羽生さんのライバルとして有名な森内十八世名人は、実際に対局で使われる立派な将棋盤と駒がカラー映像で浮かび、さらに背景や他の人たち(記録係や読み上げ、立会人など)も映り込んでいるそうです。

長らく勉強してきた修業時代の自分の盤と駒がいつも思い浮かぶという棋士もいました。
直前に見た盤と駒がそのままという棋士も多いようです。
実はわたしの脳内将棋盤は、このパターンです。
白黒映像で、駒も「王将」や「飛車」が「王」や「飛」(一文字駒といって見やすいのでテレビ中継などでよく使われます)、さらに暗黒に駒が浮かぶ将棋盤には線がないなどの棋士が、かなりいるようです。
森内さんのケースに比べると、抽象化、記号化が進んでいるのではと思わされます。
変わったところでは、清水市代さんという強豪女流棋士は、色も形もそのとき次第で、海の中を駒が泳いでいたり動物が駒のお面をかぶって走ったりと、「超ファンタジー型」です。
昭和を代表する名棋士、中原誠十六世名人は、この脳内将棋盤が年を重ねると暗くなって、手が読めなくなり、将棋も弱くなったと答えています。

この脳内将棋盤は、おそらく棋士の思考に迫る最も良い題材だと思います。
人によって千差万別、本当に興味深い、面白い研究テーマになりそうです。

もちろん、この話を真に受けて卒論のテーマに選んでいただいても結構ですが、成績は一切保証しませんので、悪しからず(笑)

そこで藤井聡太さんですが…
結論から言うと、彼にはこの「脳内将棋盤」がないというのです。
彼がこの「脳内将棋盤」について聞かれてとき、映像としての「脳内将棋盤」はないとはっきり答えています。
では、どうやってと聞いても、あまり上手く答えられていません。
聞き手を煙に巻くようなことは、決してしない性格ですから、よく分からないというのは、おそらく本当なんだと思います。

どうやら藤井さんの脳内では、指し手の符号でやりとりが行われているようなのです。
すなわち藤井さんは、思考の際、「脳内将棋盤」ではなくて、先ほどの「7六歩」「4五桂」といった符号が脳の中をものすごいスピードで飛び交うというのです。
しかも、それが無意識に近いらしく、指手を読んだ数十手先の結論の局面が、ぱっと思い浮かぶこともあるようです。
この思い浮かんだ局面こそが、唯一「脳内将棋盤」らしきものと言えそうです。
この話を聞いた他のプロ棋士は、信じられない、そもそも何を言っているのかさっぱりわからないと困惑します。
棋士はほぼ全員、脳内に思い浮かべた将棋盤の映像を使って、駒を実際に動かしながら、先の局面を想定して、何かいい手はないか、その手はいいのかどうかを考えているようなのです。
将棋に関してプロの棋士たちは、「天才の中の天才」といいましたが、その彼らをもってしても、藤井さんの脳内については、想像をはるかに超えていて理解出来ないようです。

藤井さんは、将棋のルールを覚えてすぐ、幼稚園の頃から近所の「ふみもと将棋教室」というところに通っていました。
この教室では、「詰め将棋」という将棋の駒を使った高度なパズルを、盤面を使わずに、符号を読み上げて、脳の中だけで考えさせるという訓練が常に行われていました。
その結果として、将棋について考えるときに、脳の中に「将棋盤」と「駒」いう画像を用意しなくても、符号だけで勝手に思考が進んでしまう特殊な能力を身につけてしまったのではないかと、わたしは勝手に推測しています。

詰め将棋については、問題を解くスピードを競う「詰め将棋解答選手権」というものが、年に一度トッププロも参加して開催されるのですが、藤井さんはわずか小学校6年生のときにこの大会に史上最年少で優勝、それ以降今に至るまで5連覇しています。
それだけでなく、その解答スピードや得点も群を抜いています。
制限時間90分のところを、始まってわずか20分ほどで途中退席したことがありました。
その場にいたあるプロ棋士(タイトル経験もあるトッププロで終盤力、詰め将棋を解く能力もトップクラス)は、トイレに行ったのかと思ったら、そのまま帰ってこなかったと驚いていました。
ちなみにそのトッププロは、全部で6問の問題の内まだ一問しか解けてなく、次の問題に取りかかったところだったといいます。
そんな中、わずか20分ですべての問題を解き、そして検算もし終えたというのです。

彼が解いた詰め将棋は一万以上とも、数万とも言われています。
最近では、見た瞬間に答えが分かってしまうと言うので、解いた数を数えること自体、もうあまり意味をなさないと思われます。

藤井さんは詰め将棋を考えるときの「脳内将棋盤」について、「詰将棋は読みだけなので、盤面を思い浮かべるという感じでは……」と答えているのですが、これについても他の棋士たちは、まったく意味が分からないと口を揃えます。
天才の中の天才である、他のプロ棋士たちも分からないと言っているのですから、わたくしたち素人が分からなくても不思議ではありません。

藤井聡太さんの思考において、符号が重要な役割を果たしている証拠として、藤井八冠が指した悪手(あくしゅ)を分析すると、ある共通点が浮かび上がってきます。
悪手とは、その局面が不利になるような悪い手のことを指します。
では、なぜ藤井聡太さんはその場面で間違いを犯したのか。
彼が指した数少ない悪手の中に、本当は銀という駒を進めるところ、間違って持ち駒の銀を打ってしまったケースや、竜という飛車が成った駒を引くところに飛車を打ったケースがありました。
符号で思考することの弱点として、持ち駒を打つ手と盤面の駒が進むことを混同してしまいがちなことが、考えられそうです。
すなわち「2一銀」と「2一銀打」という局面を混同してしまい、間違えたとのではないかという推測です。
実は先ほど言及した「詰め将棋選手権」の解答でも、この駒を進めるということと打つことの二つを混同して間違えたケースがありました。

最近は、こういうミスはしなくなっています。
こういう傾向について、藤井聡太さんは自分で把握して、混同しないように気をつけるようになったのだと思われます。

繰り返しになりますが、藤井聡太さんは、勝率8割を大きく超えて、すべてのタイトルを獲得してしまうほど、その能力は突出しています。
先ほどの渡辺明九段の見方は、一人だけ計算速度が倍以上のコンピュータで競争をしているんじゃないかという、絶望的とも言える能力差を示唆しています。
実際に藤井さんの対局を見た、とある棋士は、藤井さんの思考スピードについて、ひょっとしたらスポーツカーぐらい早いんじゃないかと思っていたら…実はジェット機だったという言葉を残しています。

その差を生み出している原因は、藤井聡太さんの脳の中では、将棋盤という画像での思考ではなくて、符号だけで行われる思考という高度な抽象化、記号化が起こっているのではないかということです。

これこそが、「藤井聡太はニュータイプである」という仮説の本質といえます。

皆さんは、理科系の方が多いでしょうから、重たい画像データではなくて軽いテキストファイルの方がはるか計算速度も速くなるという理屈はなんとなく想像がつくと思いますが…
コンピュータじゃなくて人間の脳の話ですからね。

数字と記号が飛び交う思考というのは、常人にはなかなか理解できない世界の話です。
皆さんがよくご存じの羽生善治さんも、実はインタビューで似たようなことを答えています。
符号で先の局面の読みを進め、確認するために脳内の将棋盤を使うというのです。
羽生さんも、どうやらニュータイプに近い一人のようです。
彼の脳内将棋盤は、コンピュータの画面のような無機的な将棋盤で、盤面を四分割した画像が、ものすごい勢いでカチャカチャと入れ替わるそうです。
羽生さんいわく、盤面全体を再現するのは、脳に負荷がかかりすぎるとのことです。
彼は、少しでも脳内将棋盤での思考速度を上げるために、4分割という彼独自の方法になったといえます。

どうです、「盤面全体を再現すると脳に負荷がかかりすぎる」という発言は、脳における処理について、コンピュータと同じように画像データは重くて遅いけど、テキストファイルなら軽くて速いという推測を裏付けているように感じます。

もし、藤井聡太さんのとてつもない思考スピードが、この抽象化、記号化によって支えられているのだとしたら、明らかに一人だけ別のステージに到達しています。

だから、藤井さんはガンダムで言うところの「ニュータイプ」(科学の進歩などに合わせて、人間が新たな能力を獲得した、超能力者みたいなもんです)ではないかと、私は本気で疑っています。
逆にそう考えると、彼だけが突出して強いことも、ようやく納得できる気がします。
他の棋士が束になってもかなわない、そんな今の状況がしばらく続くのかもしれません。

 

 

 

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