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第19回:『サイダー・ハウス・ルール』(1999)

どんな人でも、ささやかな「マイ・ルール」がある。僕もあなたも、きっと持っているはず。僕の場合は、と言おうとも思ったけど、そうやすやすと表明するのは野暮ったいと思ってやめた。だって、この先僕が何かの行動をとるたびに「ああ、あの行為は彼のマイ・ルールだったっけ」と思われるのも恥ずかしいから。親しい人には口頭で伝えるかもしれないけれど。


映画:『サイダー・ハウス・ルール』

今回は、ルールつながりで『サイダー・ハウス・ルール』という映画を紹介します。原作はジョン・アーヴィングの同名小説で、1930-40年代のアメリカを舞台に、孤児院に暮らすホーマー・ウェルズ(トビー・マグワイア)が外の世界を知りたいと孤児院を飛び出し、リンゴ農園(サイダー・ハウス)で働く話です。

あらすじだけ見ると、世間知らずの少年が旅を通じて成長するという話で、割とよくある映画の流れ。けれど、登場人物それぞれの人間味が溢れていて、妙に印象に残ってしまう。


例えば、ホーマーを我が子のように愛し育てる孤児院の院長のウィルバー・ラーチ(マイケル・ケイン)。彼は院長をしながら同時に産婦人科医でもあり、当時は禁止されていた堕胎手術も受け持つがこの人物はかなりのクセ者。かたや複雑な事情のある女性の堕胎を施術し、孤児院を運営する一方で、ホーマーの大学卒業証明書を偽装し、自身の跡継ぎにしようとする。さすがの行為に院内の看護師も「違法では?」と尋ねるが彼は「法律が私たちに何をしてくれた?」と正当化する。命を扱う人間として、あまりにも考えがドラスティックすぎる。

そして当のホーマー自身も、なかなかの人物で。自分を育ててくれた孤児院を突発的に抜け出し、さらには街まで連れて行ってくれて、自分に職をくれた恩人・ウォーリーの恋人・キャンディを口説く。僕はウブだから、と全然悪びれる様子もない。いくらウォーリーがインドネシアに従軍しているとはいえ、いくらキャンディが寂しいと言っているとはいえ、もう少し葛藤があってもよさそうなのに。全然悪びれる様子もない。ウブと言えど、さすがにね?


ルールが持つ、意味とは

なぜ、こうも登場人物それぞれがあまりにも自分自身に忠実なのか。実は、それこそがジョン・アーヴィングが描こうとした人間の生きる理想の姿だから。


ホーマーがまだリンゴ農園で働く前のこと。あるとき、孤児院の隅の焼却炉のところに、一人の女性が横たわっていた。40度近い熱があり、おなかも膨らんでいる。すぐさま手術台に寝かせて緊急手術を行うことにするが、なんとおなかの中には赤ちゃんだけでなく「かぎ針」も入っていて、それが子宮の壁を傷つけていたのだ。普段、ラーチの助手として働くホーマーも動揺を隠せない。そんな彼に、ラーチは言う。

「4ヶ月まえにこの子が来たらどうしてた? 返すか? お前が何もしなくても、結局誰かがやる。技術もない奴らがな」

実はホーマーは、堕胎手術は違法であり、キリスト教的倫理観から見ても間違っていると思っていた。孤児院に堕胎希望者が来ても自身は対応せず、手術そのものにも立ち会うことはなかった。

結局、あまりの傷の深さに母子ともども助からなかった。孤児院の外にある墓地に遺体を埋める穴を掘りながらラーチはホーマーに問いただす。

ラーチ「ホーマー 親の責任を求めるのなら、子を持つか選択できる権利を与えるべきだ。違うか?」
ホーマー「そもそも自分の行動に責任を持つべきだ」
ラーチ「この子が責任を持てるか?」
ホーマー「僕は大人たちのことを言ってるんです。知ってるくせに」

ホーマーの言うことは、一理ある。そもそも自分の行動に責任を持っていれば、このような結末にはならなかった。女性自身が相手をきちんと見極めていれば、そもそも男性自身が自分で施術しようなどとは思わずラーチのような堕胎手術をしてくれる場所を探していれば、命を失うことなどなかったかもしれない。自身も孤児として産み落とされ、親の顔も知らずに育ってきたからこそ、このような無責任な行為に、ホーマーはいら立ちを隠せないのだ。

しかし、どんなに気をつけていたとしても過ちを犯してしまうのが人間でもある。この女性も普段は適切に対応していて、ほんの一夜の過ちだったかもしれない。相手の男性は医師の見習いだったのかもしれない。途中までは産もうとしていたが、何かの思い違いがあり(当時は戦時中で、男性側が出征して戦死してしまうなど)育てられなくなったのかもしれない。映画のワンシーンだけではその裏側までは描かれていないが、そうした可能性を検証した上で行為に及ぶというのは、あまりにも難しい。それができるのは、ごく限られた、一握りの人間たちだけだ。


だから、墓地からの帰り道の車中、ラーチはホーマーに言う。

ラーチ「お前がまだ人に期待を抱いているとは驚きだ」
ホーマー「それはどうも」
ラーチ「バスター(運転手でホーマー同様に孤児)の場合はどうだ? 引き取り手もない彼に選択肢は?」
ホーマー「少なくともバスターと僕は焼却炉には捨てられなかった」
ラーチ「どんな状況であれ生きていれば幸せだと?」
ホーマー「生きていれば幸せか…たぶんね」

なぜラーチが違法な堕胎手術を行うのか。それは、彼自身が孤児院を運営するなかで様々な状況の「命」を見てきたからだ。生活が苦しく親に捨てられた命、捨てられたことで人間不信になってしまった命、もしくは人の愛に飢えるあまり極端な行動に走る命。大人も子どもも関係なく様々な命に出会ってきたからこそ、ラーチは助けられる命があるならと、違法も承知で堕胎手術を行う。


一般的な当時の常識で見れば、ホーマーのほうが「正しい」。ホーマーは、堕胎手術を違法であり、キリスト教的倫理観から見ても間違っていると。それはそのとおりだろう。

しかし、そもそもラーチが立脚しているのは、「目の前の一人の命」であって、ホーマーのような「一般的なあるべき姿」ではなかった。だからこそ違法行為と知りながら堕胎手術を行う。目の前の一人の命を救えるのなら、と。ルールのためではなく自身の信条のために。


ルールは、確かに「ルール」だろう。ただ、そのルールが「何を守るためにあるのか」を考えなければ、ルールのためのルールとなってしまい、本来の意味や目的が損なわれてしまう。それは、あまりにも悲しいし、逆に間違ったルールを守っていれば、それは正しい行いをしているとは言えない。

ルールは一定の判断基準にはなるけれど、全てではない。少し突っぱねた言い方になるけれど、自分の行いが適切かどうかを「自分で」判断できるようになること。間違っていると思ったら「修正」すること。どんなに気をつけても間違いをするのが、僕らだから。

とはいえ、偉そうに言えるほど僕自身は、立派な人間ではないんだけど……。

月に1度のマイ・ルール

ルールとはちょっと話がそれるんだけれど、僕は毎月の給料日の前日に、好きなものを食べることにしている。これは働き始めた4年前から意識的に続けている習慣で、給料日の「前日」というお金の一番無くなるタイミングに、ちょっとした贅沢をするというのがミソ。お金がないときは我慢するのが普通だけど、だからこそ散財したくなるというか……。

ちなみに毎月食べるのは、うなぎです。あっ、さっきマイ・ルールを表明するのが野暮ったいと言ってしまったばかりなのに。給料日前日に僕がうなぎを食べていても「ああ、うなぎを食べるのは彼のマイ・ルールだっけ」と思っても口に出さないでください。恥ずかしいから。

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