はじめて考えるときのように

考えるとは何か?〜はじめて考えるときのようにを読んで〜

考えるとはどのような行為なのか。ふとその疑問について考えてみるとそう簡単に答えは出ないものだ。答えの出ない問いにウンウン唸っていれば考えているということなのか。それとも相対性理論についての解説本について読みながらあーだこーだ思うことが考えるということなのか。
 その疑問に一つの考え方の一助を与えてくれた本がこちらである。考えるということは頭や脳の中で物事を解こうとしている行為だけではないということを優しいことばと挿絵で示唆してくれる。考えるとは今までにない突飛な発想をするのでも、常識を全て取り払うことによって実現する天才的な行為でもない。それは問題意識を抱えて物事をみる。その姿勢なのだ。そう語りかけてくれる本。以下は本文の抜粋であるが、アルキメデスを例に考えるという行為について優しく私たちに語りかけてくれる。

「考える」ことに特徴的な行為の型ではない。「考える」ということばは、そもそも何かすることに対してつけられた名前じゃないんだ。それはいろんなことをすることだし、何もしなくたっていい。ただ、問題をかかえ、ヘウレーカの呼び声に耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。  8年間、ひとつの問題をずっと考えつづけていたっていうのも、だから、けっして嘘じゃない。その人はただひたすら、その問いを呼びかけ、かすかに聞こえるこだまに耳を澄ましていた。そしてほかの音がなるべく耳に入らないようにしてたってわけだ。  問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる。お風呂に入るのは、つまり体を洗って、お湯につかってあったまる、そういうことだけど、それが王様の冠なんかに結びついてくる。  逆に言えば、なんにもほかのことと結びつけないで、お風呂をお風呂それだけのものとして楽しむというのが、なーんも考えないでお風呂に入るってこと。いや、お風呂ぐらいそうしたいものだけどね。じっさい、考える人の不幸はそこにある。お風呂をお風呂だけで、食事を食事だけで楽しめなくなる。見るもの触れるものが、その問題に関係した顔つきになってくる。自分のまわりのものごとが問題に彩られてしまう。

この文章を見てみると自分にだって一つくらい思い当たる節があるはずだ。どうしたって解けなかった問題がふとお風呂に入っているときに解法が頭に浮かんできたこと。すごく前に無くしたものについてふと場所を思い出して探すと見つけ出せたこと。少なからずそういった体験があるのでは?その時にも自分は考えていたのだ。無意識のうちに。無意識の脳科学というものもあるが、脳は特に意識をしていなくてもPCで言う余ったメモリを使って演算を常に「していてくれる。そのための原動力は「問題意識」。自分の片隅にでも良いから関わる「問題」としておいておく。そのために直感を大事にする。違和感、気持ち悪さ、怒りそういった感情を重要視して、自分の中に芽生えた問題意識をちゃんと残しておく。それによって考える余地が存在することになるはずだ。「ちゃんと考えなさい」という言葉これは問題意識を持ちなさいという言葉と同義なのかもしれない。

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