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2023年9月16日CCCキックオフイベント@朗読専用劇場rLabo/企画趣旨説明箇所抜粋文字起こし。

https://www.kac.or.jp/events/34437/

吉野と申します。よろしくお願いいたします。このような催しに足を運んでいただき、感謝しております。

もういいですか?話し始めてしまって。あ、大丈夫です、はい。今日の催しはですね、今お手元にある、このチラシのイベントですね、 カルチュラル・カナル・カリキュラム、文化の運河、あるいは河童曼陀羅というイベントの「キックオフイベント」として、企画させていただきました。このイベントはですね、どういう事業かと申しますと、リサーチの事業ということになります。何をリサーチするのかと言いますと、主には教育実践記録というのを色々リサーチして、そのリサーチを元に 1個の朗読台本を編集して、朗読講演みたいなのを発表会の中で、行いたいというようなことが、1つ中心になってるんです。教育がテーマになってまして。私、そもそも音楽をやってまして、即興で歌うというのをやってました。 即興で歌うとですね、ステージに自分がいて、ま、聴いてもらうんですけれども。聴いてもらってるばっかりじゃ、なんか申し訳ないなと、だんだん思うようになりまして、みんなで話すイベントを、だんだん企画するようになってまいりました。その問題意識の繋がりとして、 教育っていうのが、先生の1人芝居のような場になってしまってるんじゃないかという思いもありまして、そういう1人芝居のような教育というイメージを、もっと違った、この 客席とステージというようなのをもっとフラットにしたような、そういう教育の場みたいなのを、 このリサーチを通して、世界や国内の様々な事例の中からそういったモーメントを抽出していってですね、1個の理想の教育像みたいな、今までとは違った教育像みたいなのを編み出したいというような思いがあります。

今、私がこうこのような形でステージに上がって話してるというのも同じような、心から、自分がこういうことをしない方がいいなという状況を自分で作ってしまってるような、問題意識を語りながらも、そういう スタイルを取ってしまってるという、マジ、自己矛盾でもあるんですけれども。そういうことを改善していけないかと、その「場」のあり方っていうのを解いてみたいと。教育ということを通して、 場というものの理想的なあり方っていうのを考えてみたいなという企画です。大きく言いますと。

カルチャルカナル、カルキュル、カルチュラルカナル、カリキュラム、これは一体なんなんだと言いますと、ご覧の通りゴロ合わせというのが、 あります。カルチュラルとカナルとカリキュラム。ごろ合わせなんですけれども、柳川堀割物語というスタジオジブリが、立ち上げられる前に、高畑勲監督が監督して、宮崎駿さんが、プロデューサーをして、作られたドキュメンタリー映画がありました。その映画はですね、風の谷のナウシカの工業収益を使いまして、風の谷のナウシカ、高畑勲さんがプロデューサー、宮崎駿さんが監督で、作られた映画だったんですけれども、それの恩返しというかお礼という形で、黒字になったお金を使って、高畑さん、好きな映画を撮っていいよという宮崎さんの提案から、撮られた映画だということなんですけれども、そのきっかけになったのは宮崎駿さんが、 パクさん、高畑勲さんのあだ名ですけれども、パクさん、柳川は面白いよ、あそこをロケハンするといいんじゃないかなということで、当初、アニメーションを作るために、柳川の町を、ロケハンに出かけた高畑勲監督がですね、そこで出会った柳川市の市役所職員、広松さんと出会いまして、その方から話を伺いました。どういう話だったかとい言いますとですね、かつて柳川の掘割というのは、生活に大変必要な生活用水として活用されていたんですけれども、近代化による上下排水、給水、排水システムが発達することによって 使われる機会がなくなり、そこがゴミ捨て場になって、これはもう暗渠にしてしまえと、埋め立ててしまおうという話になった時にですね、1人の市役所の職員、その広松伝さんが立ち上がりまして、 もうすでに工事業者との話が決まっていた、その話をですね、市長から市役所の他の職員、そして、市民全員を説得して、何度も話し合いの場を持って白紙撤回させて、市民協力の形で柳川の掘割を再生したと、 その話に大変な感銘を受けた高畑勲監督がですね、これは ドキュメンタリー映画にした方がいいんじゃないかということを思いまして、宮崎さんに相談したところ「お、それはパクさん、いいアイデア。ぜひそうしてみようじゃないか。」そういう風に、宮崎さんもおっしゃったそうです。それで気を良くした、高畑さんは「 本当?本当に撮っちゃうけどちゃうけどいいのかな?」っていうので、リサーチを始めました。

ところが、なかなかその堀割のシステムっていうのは奥が深くて、簡単には理解できなかったんですね。どういうふうに考えても、なかなかすんなりとわかんなくて。

それでも、たくさん勉強して通い詰めてるうちに、「あ、そういうことか。」と、 勉強が自分の身に染みて理解できた瞬間があって、この自分が学んだことを、みんなと共有したいという風な気持ちから作られた映画ということで、なんて言うんですかね、夏休みの自由研究の発表のような、社会科の授業の成果発表のような映画なんです。非常に、真面目な映画でして、 3時間ぐらいあるものなので、見てると、大体、寝てしまう。最後まで見ることができない。でも、NHKの名ナレーターの加賀美幸子さんが、ずっと脚本を朗読をされて「ナレーション」してくれるので、とてもいい気持ちで、ゆったりした、川の流れのような時間を体験できるという意味では、とてもいい映画ではあるんですけれども、 ナウシカのように、活劇があるわけでもなく、全くヒットもせず、大赤字を背負ってしまい、その借金を返すために、宮崎駿監督が、大急ぎで作った映画が「天空の城ラピュタ」。これの興行収益で、また、その借金は返せて、それを全国に上映するために作られた会社が、スタジオジブリということなので、ある意味、ジブリの生みの親とも言えるような映画なんですけれども。私の中で、カルチャルカナルカリキュラムというのイメージの元にあるのがその映画なんですね。

この映画、全くヒットはしなかったんですけれども、もしこの映画がヒットしていたらという仮説を立ててみました。 この映画がもしヒットしていたらジブリは生まれなかっただろう、そして、もしヒットしていたらどうなっていたんだろうということで、考えましたところ、柳川と 同じ福岡の筑後川のリサーチをした人物がいまして、それが中村哲さんというアフガニスタンに 用水路を掘った医師の方です。その方がですね、筑後川の、江戸時代とか、古くからの治水技術を学びまして、その勉強した技術が、 ちょうど、アフガニスタンの、彼らが用水路を掘ったところの、1番厄介だった問題を解決するのに応用できたりとか、古い日本の治水技術を、アフガニスタンで用いて、そこにみんなが生きていく場所を開くことができた、命の場を開くことができたみたいな話がありまして。これが、唯一の、なんて言うんですかね、柳川堀割物語が、もし、みんなに共有されて、同じような勉強スピリットみたいなのが展開していたとしたら、中村哲さんのアフガニスタンでの実践のようなことが爆発的に 起こったんではないかみたいな仮説ですね。そういう、もう1個のジブリみたいなのがあったとしたらっていう仮説に基づいてですね、その、社会科教育であったり、水辺に関する、レイチェルカーソンの、レイチェルカーソンさんご存じだと思うんですけど、『沈黙の春』という、農薬の被害に関する本や、『センス・オブ・ワンダー』という子供の頃の自然に対する感受性を持つことの大切さを説いたその2冊の本が有名なんですけれども、その本の他に、『海辺』『われらをめぐる海』あと『潮風の下で』の海3部作っていう、海に関する本が、彼女の中心になる著作としてありまして、海のことも考えたい、 そのレイチェルカーソンさんの。それから、ここでも九州の話になりますけど水俣病の問題を取り扱った石牟礼道子さんの『苦海浄土』と、そういった九州の、有明海や、その不知火の海、筑後川の、その治水技術のことなんかを最初、私はリサーチしていました。そして九州にはですね、水俣出身の谷川雁という詩人ですね、詩人で思想家の方がおられるんですけれども、その方の呼びかけに応じて、上野英信さん、 それから森崎和江さんという2人の方と、 サークル村というですね、文芸サークルのようなものを作られた活動があったそうなんですね。戦後の文化運動、市民によるその民主的な文化サークル、 ヒエラルキーがない、文化のネットワークみたいなのをですね、谷川さんが、考えまして、それは、労働者が文章を書く、それの交換を行うような、そういうネットワークをつくることがありました。そのサークルに参加していたのが石牟礼道子さんで、そこからいろんなことが、感化されて、教育されたというんですかね、勉強されて、苦海浄土を生み出す基盤になる。ただ、その運動はですね、すぐに、うまくいかなくなって、なくなってしまったんですけれども。そのような、文化運動というのがかつては日本でも市民の中であったと。それが、途絶えて今はもうマスカルチャーというような、テレビや、雑誌や、生産されたもの、自分たちで作り出す文化というよりは、商品になってるもの を享受するという文化の形態が、今では一般的なものとなっているんですけれども、それをですね、やっぱり自分たちで生み出す、朗読専用劇場rLaboというような、こういうこともですね、やはり私は、あの 労働者であったり、市民の、自分たちの文化としてのあの朗読っていうのがあると思うので、谷川さんたちの試みともなんか繋がってることのように、そのように思うんですね。

で、この イベントは、カルチュラルカナルカリキュラム、文化の運河、あるいは、河童曼陀羅というタイトルになっております。この河童曼陀羅というのがですね、火野葦平さんという、えー、芥川賞作家でもあり、従軍記者でもあった火野葦平さんという作家さんの、著書名でもあるんですね。

火野葦平さんはですね、先ほどお話させていただいた中村哲さんのおじさんに当たります。2人の共通点としましては、戦場で、たくさんの文章を書いたという共通点があります。ただ、違いもありまして。その火野葦平さんは、日本軍を、戦意を高揚させる、 兵士たちを鼓舞するために、文章を書いた、書き続けた、しかし、戦争が終わった後は、戦争犯罪者として、糾弾され、批判されたという方でありました。 片や、中村哲さんはですね、戦争が、アフガニスタンに、米軍からの爆撃があるなか、戦争には一切関わらず、そこに、用水路を、戦争の下で掘り続け、そのことのルポタージュを書いた。戦争のことも書きましたし、戦争の状況、今、どういう風に、アフガニスタン側から、爆撃される側の立場から、そこで命の営みを続けていくための用水路を掘るという、その対比の中で文章を書いたという、そういう違いはあるんですけれども。この中村哲さんは、意外なことにというか、その火野葦平さんを大変尊敬してらっしゃるんですね。筑後川の、その川のほとりには、中村哲さんが書いた「濁流に 沃野夢見る 河童かな」という、俳句が記された歌碑が立っていもいるということなんですけれども、このカッパというのは、もしかしたら、火野葦平さん、叔父さんのことも含まれてるのかなと いうように思います。おそらく、ご自身のことも重ねておられるんだと思うんですけれども。で、河童というのは、不思議なもので、 日本の文学にすごく大きな影響を与えている、大きなメタファーとして存在している存在でもあります。芥川龍之介の遺作は、河童という、えー、小説でありますし、他にも、井伏鱒二、稲垣足穂、折口信夫そういう、 民俗学者ですけれどもね、柳川国男などの河童について、たくさん著作もありますし、石牟礼道子さんなども、子供の頃におじいさんから、お前には河童がついていると言って、お払いをされたっていう話なんかも、河童という、小さいお話しを書いておられます。文学における河童というものに、なんというかですね、こう、命の場を守る思想を持った存在、ま、エコロジストとかですね、民主主義者みたいなものを重ね考えてみたいなということで、河童曼陀羅というタイトルをつけさせていただいた。

そして、河童曼陀羅という本の中にはですね、火野葦平さんの 文学を通じたお仲間の様々な方の、河童のイラストが添えられております。お手紙を書いたりして依頼されたそうで、そのカッパのイラストは、うまい下手、それは問わず、どんなものでも書いて下さい。いやいや絵はもう下手なんで、そんなことは関係ないから、とにかくあなたにカッパの絵が描いてほしいんだというような手紙を受けた。そのご友人たちがですね、カッパを書いて、思い思いに、有名な作家さんたちが、たくさんおられますけれども、その方々が描いたカッパの絵が添えられているという、そういう本になるわけなんですけれども。

私の今回の企画でも、河童ではないんですけれども、参加した人たちに、作文を書いていただいたり、朗読をしていただいたり、様々に今私がやってしまってるようなこういう一方的なコミュニケーションの場ではなくてですね、お互いにカッパになってみようじゃないかというような、「かっぱまんだら」というような状況が最終的に実現できたらいいかなという、そのようなイメージで行わせていただいております。

それでですね、私、最初はその、九州の話を調べ始めました。

有明海のウナギに関する写真集を手に入れましてですね、「有明海のウナギを中心にリサーチをしてみたいと思います」などと、 京都芸術センターという、今回、共同でリサーチプロジェクトするパートナーのスタッフの皆さんの前でプレゼンをしたこともあったんですが、皆さん、きょとんとされた顔で私の話を聞かれておりましたけれども、なんかちょっとこれ、おかしい方向に進んでいるな、京都で、九州の、ウナギや海や水の話をリサーチしても、あんまり人には響かないんじゃないかなと、そのようなことを考え始めましてですね…これ、なんかまずいことじゃないかな。みんなの顔を見ていても表情があんまり冴えてない。これは俺は間違った方向に進んでいるに違いない。 このように思いましてですね、なんかもうちょっと関西に寄せた企画はできないものか思っていました。そんな時にですね、京都工芸繊維大学という大学がございます。北の方ですね。鬼頭梓という日本の公共図書館建築をたくさん、多く手掛けた、 公共図書館建築のパイオニアと呼ばれる方の、展覧会と、記念シンポジウムがございました。私はそのシンポジウムを聴講しに伺いました。その際にですね、登壇者の方たちが、鬼頭梓さんと同時にですね、 当時、日本の公共図書館というのはどういうものがあったかというと、まず、閉架。本が手に取れる場所に展示されていない。本は、受付の奥の書庫に全部しまってあった。 スペースではですね、受験生たちが勉強する、勉強の場所として市民に活用されるという、 そして、読みたい本は自分で本の名前書いて職員さんに提出したらその場でだけ読める。だから貸し出し制度というのは当時はなかったそうなんですね。そういう問題があったところ、有山さんという方がですね、 自分の私財を投げうって、その図書館の文化を研究する研究会のようなものを立ち上げました。そこに、前川恒雄さんという、将来日本の公共図書館のシステムデザインの礎を築くような仕事をされる方がおられるんですが、その方などを、呼び招きましてですね、イギリスなどに海外に研修に行かせます。そこで書かれたのが通称「中小レポート」と言われるこの小さな冊子があるんですけれども、ここにですね、そこで見聞した見聞録のような、日本の公共図書館に取り入れるべき、 システムデザインのあり方、そういうものをリサーチを元にレポートしました。

その方はまず、図書館を作るにあたって、図書館の「館」はいらない、必要なのはネットワーク、 ネットワークさえあれば、まずネットワークが大事なんだ、図書館というものは建築物じゃない、 大事なのはネットワーク、市民との、市民と本とのネットワークをまず作ることだ。それを作るにはどうしたらいいんだ。俺にできることは何がある?

移動図書館

市民に親しまれやすい

ひまわり。

ひまわり。

みんな聞いてくれ。俺は「移動図書館ひまわり号」ってのを、作りたいとおもうんだ。みんなどう思う?どう思う?いい?いいとおもうか?

そういう話になりましてですね、移動図書館ひまわり号。

そういう企画が立ち上がりました。

それをですね、町に行って、「移動図書館ひまわり号、皆様の町にやってまいりました。

なんでもお好きな本はお貸しします。」というような事をマイクで喋りましてですね、ご本人がひまわり号に乗られましてですね、町を回りました。ところが、なかなか利用者が来られないのですね。なんだろう、あれはケッタイなのがきよったな、 うん。ちょっと足を運ぶのにも照れくさいし、今、私は農家だから 仕事をサボってると思われたら嫌だし、あんなところになかなか行けへんわ、なんていうのが初めの反応だったんですけれども。あ、すいません。あの、これ東京の話ですかね。あの東京の日野市というところの図書館だったんです。それがですね、月日が経ってきますと、 まるで、なんていうんですかね、野菜を乗せたトラックやお魚を乗せたトラックでも販売する、ああいうお店のように、 町のそのコミュニティの中で本を通じた賑わいを生み出すことになったそうなんです。

それがどのぐらいのものだったかっていうのはここには統計データはないんですけれども、まーとにかく盛大な賑わいができたと。もうそれは奇跡のような、 本当にドラマになるような、そのような状況、情景だったそうなんですけれども、それを作った上で、ようやく、じゃあ 建築物を作ろうと。そして、その設計士さん、そういうことも、話も踏まえまして、市民の人たちの親しみを感じられるような、そこにずっとゆっくりしていたいと思えるような図書館を作られて、貸し出し制度というのも初めてそこで導入されてというようなことから、 公共図書館というものが、日本で初めて市民に親しまれる形で爆誕したというようなエピソードがあったそうなんですね。

その話を聞きましてですね、松隈さんという建築史家の方が、企画されたシンポジウムだったんですが。松隈さんという方はですね、日本の公共建築のことを非常によく勉強されていて、大切にされている方なんですね。 その方のお仕事で、私が初めて彼の存在を知りましたのは京都会館、今、ロームシアターになってますけれども、あそこの建て替えの計画が起こった時にですね、反対運動されたのが、この松隈洋さんだったんですけれども、鬼頭さんっていうのはですね、京都会館をデザインされた、前川國雄さんのお弟子さんだったということもあったりしまして、松隈洋さんが、鬼頭梓さんの、シンポジウムなども企画されました。その中でですね、どういうことがあったか。文化の民主主義というもの自体を本当に問うたものとして、私は、もうこの日本の公共図書館建築というもの、図書館というものを通して初めて、そういうものが本当に姿を現そうとするような瞬間というんですか、予感みたいなのを初めてこう体験したというか、感じることができた。 これはこの後どうなっていくかわからないが、まあとにかくここで初めてそれが生まれた場なんじゃないかみたいなことが書いてある文章を読みまして。これはなんかとても大事なことがかかれていると。

なぜそう思ったかと言いますとですね、今、日本の文化施設というのはどこも、まあ窮状にあると。予算カットの1番の矛先が、ハコモノ行政という言葉が示すように、まー無駄な文化施設というのを作ってですね、だ、利用者が誰もいないような、でも職員だけがいて、そこに税金が使われていてなんなんだって、市民から攻撃を受けるような、そういう文化行政のあり方がありますけれども、やっぱりわたしたちは民主的な文化のあり方っていうのを真剣に考えてはいないんじゃないかということがありましてですね。私、非常に図書館を利用する人間でありますから、 図書館と、例えば学校、それから、市民の皆さんの職場だったり、あるいは美術館、保育園、工場、教会、児童館、映画館、浄水場、市場、ショッピングモール、植物園、大学、病院、小児科医院、家、ダム、地域コミュニティー、公園など、私が「ここは文化施設じゃないだろうという」と思ってる色々な施設を文化施設として有機的に繋ぎ合わせることで、 社会の中に文化のネットワーク、水路を張り巡らせるといいんじゃないかという思いを込めたのがこの文化の運河という言葉なんです。

それはまあ、長い文章になると思うんです、まだ自分の中ではここで繋ぎ合わされてはいないんですが、このリサーチを通しましてですね、この 文化の運河というものを、文章としてこの事業の中で表現してみたい。

長い説明になりましたけれども、そういうことになっております。

ご清聴ありがとうございました。

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