21/10/2 コナンがミステリである限り目暮警部は一生マトモに仕事できない

大量消費の波が文芸や娯楽にまで押し寄せてきている昨今、映画やドラマ、漫画やアニメについても例外でなく、僕らは物凄いスピードでそれらを消費している。
吸収には排泄がつきものであるかのように、大量消費に際して、ネットの海には多数の”ネタバレ”が散見される。この日記は、ネタバレと文化の話だ。

突然だけど、僕は学部時代、決してお金のある学生ではなかった。だから大学院生になり返済義務のない奨学金を手に入れ、経済的に独立した生活を送れる現在から振り返れば、お金の使い方も少しずつ変化してきている。
その一つに文化資本への投資が挙げられる。昔は本を一冊買うのも書店に立ってかなりの時間黙考を要したけれど、今は多少気になるものであれば数冊まとめてネットで注文してしまう。また、娯楽についてもそうだ。数年前は考えもしなかったが、今ではサブスクだけで月に数千円を払っている。

前置きが冗長になってしまったが、サブスクで映像作品を選ぶ際に口コミを参考にすることがあるのだが、そこには比較的頻繁に、『ネタバレ注意』的な文言があって、僕はその度にモヤっとしてしまう。ネタバレってどこからがネタバレなのだろうか。
例えばミステリで「犯人は〇〇です」と書いてある口コミは完全なネタバレだ。「トリックは〇〇です」も、「動機は〇〇です」もアウトだと思う。では「被害者は〇〇です」はどうだろう。やっぱりアウトだろうか。
僕は、ネタバレを『物語上の重要な情報をバラす』と言うことであれば、割と全部アウトな気がしている。例えば「ラスト10分のどんでん返しに目が離せない!」的な売り文句もアウトじゃないかと思っている。僕らはどんでん返されると思って見るしかないし、「どんなどんでん返しかは言ってない」と開き直っている感じもシャクだ。
そう考えると、そもそも、「これはミステリです」とか、「これはSFです」みたいな、ジャンル分けも一種のネタバレのような気がしてくる。もちろん物語のプロットについて具体的には何も述べていないわけだが、”10分どんでん返し的ネタバレ”と同様に、その物語が大局的にどのような進行を見せるのかと言うことは明示的になってしまっているのだ。名探偵コナンがミステリというジャンルにある限り、名探偵が赴く先には常に事件があり、それを名探偵が解決する。目暮警部は常にその脇役で、ジャンルの檻から抜けない限り、マトモに事件を解決することはない。ミステリであるが故に、それを読む前から僕らはストーリーの進行を一定程度推測することができるのだ。
しかし、文芸の経済合理性を考えると、このジャンル分けが必要不可欠であることは明若觀火である。僕らは多くの場合、ミステリが読みたい、恋愛モノが読みたい、SFが...と思って作品を選ぶのだから。ジャンルがわからないというのは何が出てくるかわからない飲食店に飛び込むようなものだ。詰まるところ、売る側にとっても、これは〇〇というジャンルですよと明示した方が圧倒的に売りやすいし、買う側にとってもその方がありがたい。

畢竟、僕らはネタバレによって作品を選んでいると言えるかもしれない。あの作者の、あの恋愛モノの、あの女優の、あのラスト10分でどんでん返される作品が見たい...そんなふうに。
そう書くと当たり前なのだ。作品の重要な部分によって鑑賞の如何を決定することと、ネタバレが『物語上の重要な情報をバラす』ということはある意味表裏一体で、単にこれは何をバラして何を隠すかという程度問題に過ぎない。

最後に、この日記で僕が議論したかった思考実験がある。書いているうちにものすごく自明なことのように思えてきたので差し込まなかったが、実験テーマは『真に”ジャンルのない”作品は創作可能か、可能であればそれはどのように評価されるか』というものだ。無論、ジャンルというものがMECEな区分ではないから、”恋愛サスペンスSFスリラー”みたいな、ジャンル複合的な作品はすでに数多存在するが、”真に”というのはそうではないものは作れるかという問いで、この文章を書き始めたときにはこの実験の帰結として”ジャンル区分という経済合理性は文芸の芸術的進歩を制限するのではないか”というようなことを書こうと思っていた。夜半に文章を書くのはよくない。

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