自意識の発露としての厳密性の耐えられない軽さまたは重さ(22/3/6)

自動車はその殺傷能力の割に、あまりにも運転が簡単すぎるのではないかと思うことがある。例えば飛行機や大型重機は確かに一瞬で何十、何百人を死に追いやることができるけれど、その分、それらの運用には能力と技術が求められる。他方で自動車はその危険性と必要とされる能力の間でトレードオフが破綻していて、それが最近の危険運転の本質的な問題のような気がするのだ。馬鹿とハサミはなんとやらとは言うが、馬鹿がハサミを握ったら、これはもう手が付けられない。
どうしてこんな話を始めたかと言うと、これはほとんど言語運用の持つ問題に対するクリティカルな類比になっているからだ。さらに悲惨なことに、言葉を使うことに免許証はいらない。

突然だけど、良い文章とはなんだろうと考えることがある。もっと広く、読み物と言ってもいい。もちろんこの命題は価値ある読書体験とは何かとか、意味のある情報とは何かみたいな、もっと具象的な個々の問題を含んでいて、一軸的な回答がほとんど不可能なことは理解している。けれど、たった数十年で死に至る僕らが数百年とか数千年前の読み物を手に取ることができたり、毎日毎日読むスピードを遥かに凌ぐ速さでそれらが生産されていることを考えるにつけ、これは読むべきだ、と僕に教えてくれるような指標を持っておきたいという願いを抱くことくらいは、許されるのではないかと思う。教義じみたものがあれば、堆い積読も、金山、いや銅山くらいにはなるかもしれない。
話が少し逸れてしまったけれど、そういう願いというか企てに立脚した”良い文章探索問題”には、厳密性とは何か、という小見出しがあって、僕は最近これについて蟠りを抱えている。一言で言えば、厳密性を担保しない”危険運転”に過度に目が取られてしまうのだ。
僕が恐怖する言葉の危険運転の代表例として、引用の誤謬と論理的飛躍がある。引用という技術は、論説の正当性を支持したり、または文章としての品格を担保する装置として不可欠だけど、それこそ数千年前の哲学者の言葉や、物理学用語のように、本来その利用が高度に技術的なものでも平気で運用して、そして元の意味から大きく外れてしまっていることが散見される。こんなのは虎の威を借る狐にすぎないし、引用元にも、読者にも、場合によっては論理を組み立てる自分自身にも、不誠実極まりない。
論理の飛躍についても同じようなことが言える。よくよく読めばごく限られた場合にのみ成立する論理が、あたかもあらゆる世界に適用されるかのように書かれていたり、またはそもそも推論の立つ元の仮説が誤っていたり。素晴らしい結論を目指したイカロスが、地表に頭蓋骨を叩きつける鈍い音を、もう何度も聞いている。

間違えられては困るのだけど、僕は危険運転を取締る警官になりたいわけじゃない。むしろ自分が過去に産んでしまった厳密性を欠いた色々とか、未来に産むであろうそれらに恐怖している。そのせいで僕は文章を書けなくなっているし、これはもうほとんど恐怖症に近い。そしてこの日記の本質的な問いは、『そのような厳密さへの過度な要求は何から生まれるか』ということである。
言葉の危険運転がもっとも目に止まる時、その対象は自分の専門分野に近いことが多い。そうでなくても過去に学んだことがある分野とか、経験したことのある事柄についての場合がほとんどだ。もちろんそれは、未経験の事柄についてはそもそも誤謬も飛躍も判断できないからなのだが、”過度の注視”にはそれ以上に、僕の自意識が絡みついている。
この言説には誤りがある、と言うとき、それは暗に自分の理解が正しいと思っているわけで、発言は自己肯定と他者否定を内包している。自信がある事柄であればあるほど、心はザワザワするし、翻って自分に対する恐怖が増すのだ。厳密性を求める一見理性的な精神が、実は自己肯定感とか、自意識のような非論理的な感情と結びついていると気がついた時、僕はまた恥ずかしくなる。付け加えて、その過度な恐怖は、創作意欲を減退させたり、アイデアを矮小化したりもする。僕はまだどこに妥協点があるのかを全然見出せていない。

巷にあふれている厳密性の耐え難き軽さと、その裏にある理想像という耐え難き重さの間で、自意識に気がついた僕は尚、ギリギリ、人を傷つけないように運転するしかないのかもしれない。おわり。

おまけ。最近『存在の耐えられない軽さ』を読み始めた。プラハの春を描く作品は、昨今の世界情勢と結び付けずにはいられない。多くを語ることは僕にはできないけれど、極東の端っこで世界平和を願っている。


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