21/9/26 英会話で僕は自己の一貫性を学んでいる

ライターで企画屋の堀元見さんが「会話にはプロトコル的なものとそれ以外のものがある」と言っていたが、英会話ほどこの事実を痛感する瞬間はない。そしてその瞬間に、他のどのタイミングよりも強く、発話者としての僕と思考者としての僕の一貫性を意識させられる。

多少込み入った話なので順序立てて書くことにする。まずプロトコル的会話というのは平たく言えば世間話と言い換えられるような、”内容ではなく会話することに意味がある”系の会話のことだ。例えば初対面の人に「今日は天気がいいですね」という時、ほとんどの場合、僕らは天気について興味がない。
プロトコル的な会話には人間関係を構築するための入り口としての役割がある。つまり『僕とあなたは会話を行い、関係を構築することが可能ですよ』ということを証明するのだ。そのためには会話の内容はどうでもいい。
他方で、ひとたび関係構築が可能であることがわかれば、(必要に応じて)実際に関係性を形成する作業に入らねばならない。その段になって初めて僕らはプロトコル的会話を逸脱し、”意味のある”対話を始める。今度は相手を知るための会話だ。

このように会話内容とその役割の遷移を客観視すると会話の難しさの本質は『いかにしてプロトコル的会話から脱出し関係性を構築するか』ということだと言える。どうでもいいことからどうでもよくないことへ。今日の天気から対峙した人間へ。僕らは”自然に”移行しなければならない。
そして(その得手不得手に差はあれど)僕らはごく当たり前にそれをやってのける。「今日は天気がいいですね」「そうですね、むしろ暑すぎるくらいですよ」「確かに、そう言えば今日は車ですか」「そうです、満員電車は避けたいので」「どちらにお住まいなんでしたっけ」...。
もちろん、この遷移は人によって異なるルートを辿るわけだが、逆に考えるとこの会話の遷移方法こそ、僕らのユーモアや人間性の発露だと言える。人間性が発話を規定するのではなく、発話が人間性を規定するのだ。

しかしながら、母語以外での会話となると状況は少し異なってくる。会話の要素である、相手が誰であるかということと、自分の人間性(ユーモア)に加えて、語彙力や文法といった第三のファクターが明示的に出現するのだ。
僕は英会話でこの”新たな制約”を非常に強く感じる。英会話を続けると、プロトコル部分は定式化され、大体決まった通り一辺倒をかませば問題ないのだが、そこから次のステップに遷移しようとすると即座に自分の無能さの断崖が立ちはだかるのだ。それはある種、思考者としての自分と、発話者としての自分のギャップを意味していて、一個体としての僕の分裂を感じる。

またこの経験は翻って、それまで母語の世界で無自覚的に前提とされていた内面的/外面的な自己の一貫性を強調する。僕は使い慣れすぎた言語によって自分らしさを無自覚的に、自然な形で、発現させていたのだ。母語は気づかぬうちにプロトコル状態からの遷移に十分なエネルギーを提供してくれていたのだ。
英会話で僕が活性化状態に至るにはもう少しエネルギーを貯める必要があるようだ。

追記。おそらくこの議論を進めると、上述の命題は発話以外の内的/外的な関係性一般へと拡張される。さらに言えば、それはカントの超越論的認識論の言う一連の”もの自体”に関する論理によって解釈されうると考えられるが、門外漢なのでここでは深く立ち入らない。

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