21/11/2 宇宙飛行士よりツバメになりたい

Twitterで"文芸の電子化は、人類の宇宙進出のようなものである。"という円城塔の呟きを見た。彼がどのようなコンテキストでそう呟いたか僕にはわからないけれど、文芸が電子化されることで新たな"開発"の舞台に立ったと解釈するなら、それはある側面においてあらゆる芸術の発展に敷衍できることかもしれない。
ではこの地上に在るもの、起こることを全て我々が理解し使いこなせているかと言うと、全然そんなことはない。

ちょうど昨日、泡坂妻夫の『しあわせの書』を読んだ。あるところで"最後の数ページで全ての見方が変わる"と薦められていたこともあり、届いたその日に一晩で読んだのだが、先の書評は全く僕を裏切ることなく、つまり僕はこの薄い文庫本に完全に裏切られた。
(作者がマジシャンであることも鑑みてあえてそう呼ぶことにするが)その"トリック"は紙媒体、さらに言えば文庫本ならではのものであり、多数の作品が映像化されている作者の代表作にあって、それが完全に映像化不可能であることも頷ける。どころか、きっと電子書籍にすらできないと思う。
この読書体験を冒頭の円城塔のセリフと重ねるとき、フィールドの"未知性"と現象の"未知性"が全然異なるレイヤーの問題であることを痛感させられる。平たく言えば、僕らがよく見知った世界にもまだたくさんの未知が隠れているということだ。

これは例えば物理学の世界にも言える。僕がそうであったように、物理を志す少年は多くの場合、宇宙か、または素粒子の世界に惹かれる。それはまさに、知の辺境がそこに広がっているからだ。
しかし少なくとも僕は、その道へは進まなかった。今いる物性という分野はむしろ身の回りに存在する物質についての学問で、言ってしまえば元素周期表の中のお話に過ぎない。
しかしそれでも、泡坂が試みたようにそこには多数の未知が存在していて、分野の発展は止むことがない。大冗談を踏めば、僕はそこにロマンがあると感じたりする。

確かに宇宙を目指すことは偉大だ。新たな世界での発見や発明は賞賛されるべきことだ。しかし他方で地上には数多の星が広がっていることもまた事実である(と信じたい)。中島みゆきの歌を借りるなら、僕はむしろ地上の星を見つけられるツバメになりたい。おわり。

追伸、冒頭に引いた円城塔が新進気鋭の文学作品を、または実験的手法を試み続けていることは本論からすればある種の皮肉かもしれない。

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