世界を諦めないために

新聞を朝夕ともに購読している。仕事がある日は夜に、無い日は少し遅い朝食の後に読む。私の場合一度読み始めると一時間以上使ってしまうので、一日を構成する要素としてそこそこ存在感がある。「さあ今から新聞を読むぞ」と思って読む。

毎日続けて読むことの良さを一つ挙げるなら、物事の変化を実感できることだ。
トピックとしては同じでも、それを取り巻く状況は刻一刻と変わっていて、この「変化」を承知するということが世の中に加担する有効な手立てになり得るということが、十年以上新聞という媒体に触れ続けて感じた素直な思いだ。
一方、新聞を通じて様々な出来事に触れれば触れるほど「変わらなさ」に直面することも多々ある。心が痛くなる争いや、呆れて言葉も出ないような言動に関する報道を見るにつけ、「ああ、人間はまだ変わることができないのか」とやるせない気持ちになったことは幾度かしれない。

『歴史は韻を踏む』という著名な歴史家の格言が、まさに韻を踏むそのたびごとに思い出されるという皮肉。もういらぬ韻を踏まぬようにと残されたはずの言葉が韻を踏んだ時にだけ声高に叫ばれるという矛盾。人間の歴史におけるこのレベルの不誠実なら、探さずとも過去現在問わずそこら中に転がっている。だからこそ歴史家は「韻を踏む」という言葉で警鐘を鳴らしたのだが。

自分が被ったことには敏感で、その時に感じた痛みを増幅させることだけは得意で、むしろ探していた口実が見つかったことを喜ぶように何のためらいもなく爆弾の雨を隣近所に降らせる。それはまた別の口実を生み、「報復」という言葉の薄っぺらさからは想像もつかない数のミサイルが叩き込まれる。どちらの方がより悪かを互いに主張しあう。悪を決定する基準は色々だ。先に始めた方が悪い、たくさん殺した方が悪い、より危険な武器を使った方が悪い、イデオロギー的にそぐわないから悪い、歴史的に見て異端だから悪い、10年前はこちらが被害者だったからそちらが悪い、10万年前に土地を奪ったあなたが悪い。理由なんてどうだっていい。何がなんであろうが、お前が悪くてこっちは悪くない。

ずっとずっと、こんな風にして人間は飽きずに過ちを繰り返してきたのだろう。過ちを犯すこと自体を完全に食い止めることはできない。でも、せめて同じようなことが起きる可能性を縮小させるくらいのことはできたっていい。それでも、やっぱり、なぜか、どうしても、私たちは韻を踏んでしまうらしい。新聞を読んでいると、その事実を意識せずにはいられない。我々人類は今まさに韻を踏みつつあるのだということを、否応なしに突きつけられるから。

直接的な力を持たない以上、私にできることは限られる。
何かできることがあるとすれば、それは「世の中を諦めない」ことだ。
人間なんてどうせ変わらない、世界なんて結局こんなもんだ。そうやって切り捨てるのは容易い。なぜなら、その通りだから。
でも、私は直面していたい。直面してやっぱり変わらない色々に溜息をついて、それでもまだ直面していたい。そうすることでしか、この韻を踏み続ける世界に自分を放り込み続けることでしか、私の思考を動かすことはできないから。

私は考えていたい。呆れて、何に呆れているのかを考えたい。許せないと感じて、なぜ許せないのかを考えたい。また失言してるよと笑って、なぜ彼や彼女らが同じ失言をしてしまったのかを考えたい。そして彼ら彼女らが撤回しますと言ったら、なぜ撤回するという宣言一つで過去の発言までなかったことにできるという文化が出来上がっているのかについて考えたい。

考えることでしか、安易な切り捨てから自らを遠ざけることはできない。
だから私は、今日もノロノロと新聞を読む。

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