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イベントの感想と変態的考察

6/9,10と連続でイベントに参加してきました。
ただでさえこういうイベントにお客さんとしていくことがまずないのに、まさか出展側として関わることになるとは夢にも思いませんでした。

人生って何が起こるかわからん、と知った顔で言ってくる大人が嫌いだったのですが、まさか自分がそれを言う側になるとは。

2日かけて参加したイベントの感想というか、施術におけるインプットアウトプットを、形式をあんまり気にせず書いていこうと思います。

まず9日。
こちらはチルチヨマルシェという、クローズドのイベントです。
主催していただいた方の理念というか想いがそのまま形になったような素敵なイベントでした。

今回サイキック整体という形で初参加させていただき、ありがたいことに当初の予約枠を大きく超えて、合計8名の方に体験していただきました。

僕自身何個かイベント参加経験はあるものの普段より短い時間でどう実感してもらえるのかということの挑戦でもありました。

サイキック整体という名前で活動していく中で、
「症状」という不都合を入り口にして、今の自分にとっての最然を知るキッカケにしよう、というのを大切にしてます。

自分にとってネックになっていることが、実はよりらしく生きていくための鍵になるというのが、この世界の粋な計らいだよなぁなんて思います。

「自分は生きてていいんだ」っていう感覚って肚落ちしている人ってどのくらいいるんでしょうね。

そしてそれはどうやって得られるものなんでしょうな。

僕なりの、現時点での答えは心身の問題を「消化する、気づく、整えること」から感じる「うわぁ〜そういうことかぁ」とか「楽になったなぁ〜」という感覚を得られることだと思ってます。

お風呂に入った時のあの感じを「症状」という不都合からアプローチすることで体感するという感じです。

新しく何かを身につけることで得るというのは僕にとって結構きついものでした「もともと自分には何もないから頑張らないとだめなんだ」というのが嫌でしたね。

そんな自分にむかついて仕方なかったので「元々持ってるカードの範囲内で最高級の幸せ作ってやるよ」と思ってこの施術を創ったというのもあります。

色々な動機や運があるんですけどその根底には「命を繋ぐことが仕様な「人」という生き物が、そんな回りくどい仕組みにしてるわけがない」と決めて、それを軸にどうしたらいいのか考えてました。

結果こういう施術になったんですけど、まだまだ突き抜け続けられるなって思ってます。

楽しかったです。
気づいたら終わってました。
たくさんの人に受けてもらえて、興味を持ってもらい、受けたかったなって言ってもらいました。

人生でそういう言葉を言われるなんてなかったのでびっくりしてます。
ありがとうございました。

きっと、Xでは変なことばかり言ってるし、男でもあるので女性にとっては少しハードルが高いかなって思ってて、こういうイベントで姿だけでも見てもらえると少しはそこも薄れるのかなぁなんて思ってました。

またこういう形で色々出れたらいいなって思います。

10日は荻窪にてコラボカフェの1アトラクション的な感じで参加させてもらいました。

9日で得た「結界術(仮)」を用いて空間を創り、どうすればいい感じになるかなぁなんて思いながら施術させていただきました。

皆さん本当にいいもの持ってるなぁって興奮しっぱなしだったんですけど、今回なんと20代の方が受けてくれて、めちゃくちゃ嬉しかったです。

今もわかってるわけじゃないけど、自分が20代前半てマジで何にもわかんなくて、ただ「納得がいかない」っていうのだけはわかるんですよ。でもこれって習ってないことだし、自分の気持ちなんて表現の仕方知らないし、なんなら否定されてきてるわけだからどうしようもないわけです。

そういうことを感覚的に捉えて、心に言葉を置いてくれるような年上がいたら嬉しかったなって思ったので、僕がそれをやろうと思って施術させていただきました。

みんな想いはあるんだよな。
ただ適切な器と注ぐ方向がわからないだけなんだなって思う。
補助輪的な役割というか、とりあえず道を創る役割の人間が多分必要なんだ。
僕はこれからの人生をかけて、その「道」を創ろうと思う。

良いと思ったらついてくればいいし、違うと思ったら来なければいい。
「基準」があれば「それ以外」が生まれるから。

そのためにもっと自分と丁寧に関わろうと思ったし、1つずつ現実的に重ねていこうと強く思った。

施術をしていると「もらうもらわない問題」が出てくる。
僕は正直そんなにない。

これはいくつか理由があるけど、「もらう」って同じ周波数帯に何か繋がるものがあって、そこと同調するから同じ階層での交換が行われてるんだと思う。

だから、もらうからこの人はだめなんじゃなく、もらうような要因が自分にあるかもだから見つめ直そう、が正解、というかそっちのがカッコいい。

今までなんとか生きてきた結果、繋がった縁なんだよ。
まずはよくぞ生きてきたという感謝をせずして触れるなんてことはできないんじゃないかなって思う。

触れると色々感じる。
こっちが思わず泣きそうになるくらいだ。
平気そうだけど全然そうじゃないよな。
すげぇキツかったけどなんとかここまで来たんだよな。

そんなことを感じてしまうことが本当に多い。
みんな何かしら抱えて今日まできてる。
環境の良し悪しじゃない、その人にとって適切な領域で諸々あるってことだ。

そういうところにこの世界の仕組みを感じるというか「妙」を捉えられるというか。
身体を通してこの世界というものに触れる瞬間があって、僕はこれがたまらなく好きだ。

色々なことがあったんだろうけど、そこへの解釈はこっちで決めていいんだっていうのが施術のたびに確信に変わる。

面白いよなぁ。

今日だってそうだ。

想いとか感情が生まれた時にそれをどこかに注いだり飛ばしたりする。
そうするとどこかに「ぶつかる」感覚があるんだよ。
壁に触れた時のあの感じというか、とにかく「ぶつかる」んだ。
これを全身で捉えた時に飛ばした意識がどこかや何かにぶつかったタイミングでその「距離」を計測できたら目を閉じてても活動できるんじゃないか?

この感覚を軸にして人やその建物や空間を見たら、どこが滞ってるかの流れが掴めるんじゃないかな。

全てのものにはデザインされた「意図」つまり「想い」がある。
ものに込められたものは形状記憶されるから、それを読み取るような感覚が得られたら、施術の幅は笑っちゃうくらい広がるはずだ。

まだ仮説だし、小さな感覚ではあるんだけど、僕は今猛烈にここに集中している。

土地とか場所にも重ねられた歴史という想いがあるわけで、地域によって良い悪いがある。じゃあ一番最初はどうだったのか。

アニメとかである龍脈みたいな感じで星そのものに「流れ」があるんじゃないかな。

「星」を「人体」に置き換えると一時的に蓄積させたり、溜め込める場所があって、そこの循環が歴史によって建造物とか出来事とか重なって、どんどん流れが悪くなって今に至ってる部分もあると思う。

元々「一時的に蓄積させる」という役割のある土地なら、そこに重なる歴史によって想念が重ねられて自浄作用というか人間でいう排泄が効かなくなってずっと良くない土地として言われてるとかあるのかもしれない。

どこまで見るかというのもあるし、どこまでを条件として指定するかは大切だから、ここら辺は丁寧に練習していければいいなって思う。

想いがぶつかってるのか入っているのかなんとなくわかるようになって、どうすれば嫌味なく伝わるのか、伝えられたくないのかとか感じ取れれば、もっと透き通るようなサポートができるのかなって思う。

いつどんな話が来てもいいように準備しているつもりだ。
まぁこういうことをするのが好きっていうのが一番のギフトであり才能なのかもしれない。

天才じゃなくて秀才っていう表現がようやく理解できて、今ではとても好きだ。
最高の褒め言葉だなって思う。

日々どんな気持ちで世界を見ていて、そこから何を受け取ってどう昇華させていくのかを瞬間で繰り返してる。

そういう地道な積み重ねを理解してくれて、認めてくれてたんだなって分かったら嬉しくなった。

大切にしている学びの密度とある意味狂気的な深掘り。
これがあるからこそのサイキック整体なのだということをもっと自覚して、どこまでも孤高を貫くカッコいい変態であろうと思う。

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