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楔を打つように咲き誇るエゴ。

先日、地元に帰っていました。日帰りで。
転職する背中を押してくれた方に8ヶ月ぶりに会いに行ってきました。

そこでしてきた話と得られたことの中でまとめたいことがあるので書いていきます。とにかく楽しかったです。

今月は「内観」の月で、自分の中にある諸々の感覚。トラウマや不満、イライラや燻ってる気持ちなど、どちらかというとネガティブとされる感情の整理と消化のための時間です。今まで培ってきたものと新たに加わった視点を合わせて自分という人間の内側を徹底的に洗い出すような、そんな感じでした。

「地元に帰った時の方」をYさんとしましょう。
今振り返るとYさんとの60分で28年間の様々な疑問やモヤモヤがかなり晴れたのではと思います。一部完とでも言うのでしょうか。人生はまだまだ続けますが、ある意味集大成のような形になったような気がします。

あ、そのまとめがこの記事なんだ。なるほど。
リアルタイムでどんどん繋がってめちゃ楽しいですね。
土台となるのは「グロさ」への気づきと許可でした。これがなければ始まらない。こいつがいなければ俺じゃない。俺が俺としていられるのはこのグロさがあってこそなんだ。

とはいえ今後進んでいけば向き合い難い感情も出てくることでしょう。その時もきっと今回みたいに認められるといいなって思います。

身体感覚の覚醒に一役も二役も買っているのが武術的な身体操作。
錆びついて使えなくなってしまった本来の人の感覚。便利な時代になるにつれて埋もれていった極々自然で当たり前だった人としての感覚。武術を習っているわけではないので素人の戯言だと思ってみてください。

習わなければ上達しない、時間をかけなければ上手くならない。これは事実でしょう。でも絶対に、確実に、何がなんでも習わないと何も出来ない。という思い込みは外せたほうが視野は広がります。実際、継続することこそが本質で、人によって続け方が枝分かれすると言うだけで、続けることの美しさは今も昔も変わらない。変わるのはいつだってその時代に生きる人の解釈です。

「変わってる」確かに世界は変わってます。でもその「変わってる」は本当に変わっているのでしょうか?今の僕には場面が変わるように風景が変わっているだけでその裏にある「モノ」は変わらずにそこにあるんじゃないかと思うんです。本質というとスカしたようですが、外見とか看板のような「見せたい」とする意図をすり抜けてその奥に何があるのかが以前より触れやすくなっているような気がします。

そんなことを考えていたらふと、言葉が先じゃなくて、熱量の先に言葉がある気がするなぁと思いました。自分が本当は何がしたいのか、この世界に何を表現したいのか。自分という人間の奥底にある、何がなんでも手に入れたいというもの。願いをかたどっただけの濃縮されたエゴイズム。強烈な「個」としての欲求。僕という人間の源泉のような感覚を得ながら書いています。とてもクールで要領よくなんてものじゃない。泥臭くて、地道で、なりふり構わずみっともない。何がなんでも手に入れる、どんな手を使ってでも実現させる。自分という存在を楔として地球に打ち込むような、そんな感じ。

どこにいても、何をしていても、俺は俺。
会社にいても、何していても、俺は俺の世界を作れるはずだ。
関係ないんだ。環境はきっかけで、大切なのは自分の在り方そのもの。どうありたいのか、何をしたいのか。なぜこの場所にいるのか。

選択した環境の中で自分らしく咲き誇る。
これってめっちゃカッコいいですよね。


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