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PUBLIC & DESIGN1周年: 社団法人設立のお知らせと、公共とデザインのこれから

昨年の6月半ばに初回記事を出したところから始まり、この1年ほぼ毎週記事を書き、現在の記事総数は45本(!)。ニッチなメディアだなと自覚しつつ、「このクオリティが無料で読めるなんて!」などありがたい言葉もちらほら伺います、読んでいただいてるみなさん本当ありがとうございます...🥺他にもいくつかの登壇なども行わせていただきました (下記参照)。

初回記事「公共デザインの輪郭」では私たちの問題意識とともに、公共デザインの4領域を提示しました。一方、この1年記事を(各々が好き勝手に)書いていく中で、自然と興味や関心も絞られてきました。

実は2021年1月には、趣味ではじめたこのメディアをきっかけに、PUBLIC & DESIGNあらため「一般社団法人 公共とデザイン」として法人化(🎉)し、現在はとある東京の自治体さんのパブリックイノベーションラボの設立に伴走するお仕事をメインに活動しています。

法人化にともない、少しずつメンバーで何をなぜしていきたいか、探求していきたい問いは何か...と話しています。1周年に際して、我々が考える「公共とデザイン」についての、現時点でのまとめ及び活動本格化にあたるマニフェストとして本稿を位置づけます。"公共"も"デザイン"も多義的であり、ここで述べるのは決して一般論にはなりえません。しかし、我々3人の重なり合いならではの大事にしたい思想がにじみ出る。それが重要です。一読くださると、うれしいです。

ミッション: 公共の再編を通じて、私の内なる光を灯す

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暫定的なミッション(=存在意義)をことばにしました。ミッション自体も不変ではなく変わっていくものですが、今わたしたちが活動する最重要のレイヤーに位置づけています。それぞれの意味を、順にみていきます。

わたしたちが考える公共とは、どんなものか?

初回記事でも、現状は「公共=政府・行政・お上」になっている、しかし公共は本来政府に帰属しているわけではない、と問題提起を行いました。

公共なるものは、点と点のあわいから立ち上がってくるものではないでしょうか。アーレントは公共的なるものに対して、人々が"自分が誰であるのか"を"交換できないかたち"で明らかにしあえることを重視しています。

「交換」というキーワード。役割や肩書などに囚われたアイデンティティ的なものです。母親として、部長として、デザイナーとして、ふるまう。いつのまにか、自分の全体性が1つのラベルに同化してしまう。そうなれば「かけがえのなさ=交換不可能性」は失われ、歯車のようになったり、みんなラベルのもとで同じふるまいを求められます。もちろん、人は演劇的な存在であり、分人の概念からもわかるように、あらゆる状況でそれぞれの役割をもっています。役割を完全に剥がすことが重要ではなく、1つの役割に投影しすぎてしまい、無数の役割(仮面)の統合としての"わたし"が消えてしまうことが問題なのです。

大事なのは、各々がかけがえなく異なっている存在であることです。XXに対して「A」もあれば「B」も「C」もあり、「あ」も「よ」も「الخي」も「קר」ある。一方で、異なった存在がそれぞれ無干渉に、ばらばらに、存在していればよいのか。それもまた、わたしたちの理想ではありません。

異なる考えや価値をもつ各々が、とはいえ、ともに生きていくために、焚き火を囲むように共通の関心事について向き合っていく。そこは、単に居心地がよい経験だけじゃなく、「隣りに座っているヤツ、あり得ない」という不快や「こいつヤベーな、宇宙人じゃん」という驚きもあるでしょう。

そこは、見たくないものも含めて、自分の世界の"外"側に出遭ってしまう場です。「可能性」との邂逅ー1つ席が異なれば、こんなわたしがあり得たかもしれない、こんな生もあり得るのかもしれないという空間ーです。そのやりとりを通じて、一層<わたし>と<あなた>の違いや、望ましさの輪郭が見えてくる。

公共
異なる他者や、あり得る生の可能性と出遭い、
わたしの拠り所となる光が灯るための「うつわ」

この考えに照らせば、公共=行政ではなく、企業であろうと公共(うつわ)になりえます。なので、よく勘違いされがちですが、わたしたちの活動領域も決して行政に閉じたものではなく、企業も地域共同体も含まれます。

内なる光が灯るとは?

大事にしたいキーワードのひとつが"Enabling/イネイブリング"。<en/〜の状態にする>・<able/~できる・可能である>という意味をもちます。可能性をひらいていくこと、自分にならできると感じられること、この実感値がとても重要だと思っています。

「光」は、多くの文脈でメタファとして使われてきました。キリスト教では、ひとりひとりが光とともに生まれた存在であると考えます。ここでの光が灯るとは、神が個人の中に直接あらわれる経験です。仏教の教え「自灯明」は「自らを灯火・よりどころとして生きる」といった意味です。

人は、自然や賢人の天空の光沢よりも、自分の心の内側から輝き出る一筋の光(the gleam of light)を発見し見守ることを学ばねばならない
ー エマソン「自己信頼」より

わたしたちが考える「内なる光が灯る」とは、それが何であれ自らの内から湧いて出てきた信念/信仰をもつこと、ともいえます。とはいえ、それは無批判に「Aとは●●である・Aは●●すべきだ」と妄信することではありません。みんながこういっているから、と従うことでもありません。そうした他者をも自己を照らす鏡として、わたしはどう感じるかを深め、「こうありたい/こうあることが自分にとっての善さである」という拠り所・指針をもつことです。そして、その信念が信念で終わるではなく、日々の暮らしや活動と接続されていることも同じく重要です。

総括として、ブレイディみかこさんの言葉をお借りすれば「わたしがわたしを生きること」とも言えます。スピノザのコナトゥス=自分が自分でいつづけるための力、とも言えます。そこに至る過程は「こうあるべき」の呪いの支配から解き放たれる過程でもあります。

わたしを生きられない、とは明らかな「社会課題」である

ここで述べてきたことは、単なる抽象的な綺麗事ではなく、明確な社会課題だと思っています。明確な関連性を解きほぐせてはいませんが、下に述べるいくつかの現象と「わたしを生きられない状態」は相関があるように思えてなりません。


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日本は「自殺の先進国」なのは周知の事実ですが、日本財団の2018年度の調査によれば18〜22歳の若年層の30%が「自殺を考えたことがある」とも回答しています。これには、学校での虐待・家庭での不和・うつ病の増加など多様な要因が関わり合ってきます。もちろん、簡単に語れはしないですが、社会全体の空気と他人の視線、実際に抑圧される構造...こうした環境とこれらの問題は密接に関わっています。先に述べた「呪いと支配」の問題と関わってきます。

自己肯定の低さも顕著です。自己肯定は「心のガン」とも言えます。この自己肯定とは、まさに「わたし」を生きられているかに直結します。仕事ができるなど、条件付きで相手に必要とされることは、自分自身の「存在」の肯定とは、まったくの別物です。裏返すと「仕事なしではあなたは必要ない」ことになるから。

また、他国と比べて日本では「わたし」と「わたしを超えたもの=社会や国」のつながりを感じられていないことも明らか。このつながりの実感がなければ、当然わたし以外のものには無関心になり、国全体はぼろぼろでも「関与しても仕方なし」になるのは当たり前です。

では、どうしたら光が灯るのか: 他者との出遭いと関わり合いを通じて、わたしを知る

誰しも、生まれながらに弱々しくとも光を宿しています。
たとえば、あなたが真っ暗闇にいるとしましょう。手元には、1本のロウソクがあります。そのロウソクはまだ、弱々しい灯りで足元がすこし見える程度。そこに、突然べつのロウソクをもった見知らぬ他者がやってきます。その他者が、あなたのロウソクに火を分け与えてくれます。その途端、足元だけではなく半径2mまで見えるようになりました。

このように、他者との邂逅とは自分の光を見出すために必要不可欠です。全く異なるなりわいや文化圏の人との出遭いから、身近な友人との食生活の違いまで、あらゆるグラデーション/スケールの差異。それらはすべて、わたしたちが見ていなかった別の世界の可能性です。「こういう生き方もあり得た/得るかもしれない」という発見です。

他者の光に触れることで、光は伝播していく、ひろがっていく。もちろん、この見知らぬ他者は、いつもあなたにとっての仲間であるとは限りません。もしかしたら、突然あなたのもつロウソクに息を吹きかけ、消してしまうかもしれない。そのくらい、他者とはそもそも暴力的で危険をはらむ存在でもあります。しかし、だから不安で怖いのだ、と閉じこもっては暗がりに居続けても前には進めない。

だから、他者と本気で交わるためには「小さな勇気」が必要です。役割としてのわたしではなく、交換できないわたしがどう感じ、どう思うかをさらけ出さないといけません。だから、交換できないから、否定されたら怖い。不安が募ります、それゆえに現代では他者との交わりが根本的に欠如しています。

それでも、勇気を持って交わった時、見えていなかった自身の可能性や拠り所として、新しい光が灯る。他者を通してわたしはわたしを実感でき、世界を拡げることができ、みえてきた可能性を人生をもって実験していく。その過程で、内なる光ー自らの芯・信・神ーは、いっそう大きく強く灯っていく。そういう人が増えればいい、その後押しのための活動が「公共とデザイン」の中核です。

光が灯る補助線が引かれた、うつわとしての環境が公共であり、そうした環境に必要な諸条件の絡まりあいの理解を深め、かたちづくっていくこと。わたしたちは「光が灯る構造とは?」といった大きな活動のためのリサーチクエスチョンを立て、探求と実践を繰り返していきます。

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リサーチクエスチョンのたたき

行っていく活動・取り組んでいきたい展望

現在のお上的な公共から、光が灯るうつわとしての公共への編み直しを行うことが、大きな活動です。では、そのためにどうしていくのか。

うつわには、プロセスもあれば、ツールやサービスもある、制度/法もあれば、文化規範もある、都市環境もある。こうしたうつわの構成要素に、最初は部分的に取り組んでいくことになるでしょう。

たとえば、プロセスであれば現在の都内自治体のイノベーションラボ設立にファシリテーション型の伴走を行っています。この過程では、クリエイティブのプロセスを実感してもらいつつ、職員の方が何をなぜやりたいのか内省を促しています。またラボ構想として「意欲はあるけどチャレンジができていないような人たち」が実験しながら区の対峙するアジェンダに取り組めるのがよいのでは、とかたちをつくっています。

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プロジェクト風景

こうした行政主導のプロジェクトを行いつつ、より生活に軸足をおいた取り組みも理想の一つです。たとえば、ゆるやかな混ざりあいから「やってみよう」がうまれ、小さな実験を通じて「これやりたい」へ変容していくリビングラボなど。それを足場に都市環境に、より他者と交わり光が灯るきっかけをつくりたいと思います。人口減少と高齢化で成り立たない地域が増えてくる中、わたしに依拠して地域でコトを起こしていく生活者はますます必要なのは喫緊の課題です。

また、プロセスや制度、文化/規範は企業とも関わります。企業の文脈に言い換えると「自然経営」や「ティール型組織」などの自律型の組織や、個人の熱量を軸にしたビジョン思考などの文脈ともつながります。わたしの拠り所と、事業・組織のあり方の不一致は、新しい価値創出/イノベーションやそれを取り巻く文化に不可欠だからです。ゆえに、今までサービスデザインを中心に培ったノウハウやメソッドを活用しつつ、事業を立ち上げる伴走も行います。そのプロセスで個人の変容とともに、組織の新たな文化基盤も醸し出されていくのだと思います。その結果うみだされた事業/サービスも、人の自律性を奪うようなものではなく、自律性と可能性を促すものであるべきです。

こうした様々なプロジェクトの中では、多様なツールも必要になります。たとえば起こりうる未来をシナリオとして提示することで、どの未来を望ましく思うのか?といった内省と対話からも光が灯っていくことでしょうし、その未来の物語自体をだれでも想像できるツールも必要です。ヘルシンキの市民協働ゲームのような協働や想像力をうながすものを作成していきたいです (コラボレーターとなる自治体・企業など、募集しています!)。

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画像: City of Helsinki サイトより

これらを簡単にまとめ、以下のような活動を中心に行っていきたいと思います。

・生活者主導リビングラボの構想と拠点開発
・各種企業のビジョンづくり、新規事業の立ち上げ
・オープンイノベーションへの伴走
・地域の起業家/リーダー向け学習プログラムの開発
・上記プロセスにて、人々の表現と発想を促すためのツール設計

おわりに

考えたりないところもたくさんあります。「公共とデザイン」は経験も実績もまったくないひよっこです。ただ、上記の思想を拠り所として、自分たちに出来る小さなことをやっていきたいので、ぜひこれを読んでいる方々に助けていただければ嬉しいです。同じようなことを考えたり、一緒にお仕事できそうな方がいましたら、お気軽にご連絡ください◎
最後に、いくつかのお願い事をして、締めたいと思います。

お願い🥺

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・本メディアで書き溜めた記事を再編集して本の出版したいので、出版や編集関係の方がいればご紹介ください🥺
・今後、お仕事が増えていく際に協働できそうなパートナーの方々も募集しています🥺

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