見出し画像

フィンランドのエコヴィレッジに滞在してきて、もんもんと感じたことの忘備録

6月の終わりから約10日間ほど、フィンランドの古都トゥルクから南にいったリヴォンサーリという島の、エコヴィレッジに住み込みのボランティアとして滞在してきた。たくさんのことが自分のなかで激しく渦巻いていて、言葉にするのがもったいない。言葉にしてしまえば、こぼれ落ちてしまう。でも自分なりに紡いでいきたい。そんな気持ち。

以前に自由のためのデザインという記事で、イヴァン・イリイチに触れた。イリイチは近代の産業化社会を強く批評する。たとえば根源的独占という考え方は、とある事柄をその他の方法で行う想像力を奪われてしまった社会状態を批評する。病気は医者に頼り、徒歩で歩けるところすら車に乗るという選択しかできない。現代社会は想像力の危機に瀕しているが、それは高度に発達した産業や市場の結果でもあり、ぼくたちが依存し続けた結果だ。

フィンランドも同じく市場化しつつあるけれど、'できることは自分でやる'というDIY文化を脈々と感じることも多々ある。「週末キッチンのタイル貼り直したんだけどさ」なんて友達がサラッと言ったりとかね。

滞在したエコヴィレッジはある種これの究極系で、自分で家やサウナをゼロから立てるひとばかり。人によっては水も雨水の貯蔵から賄っていたり、電力も自家発電していたり。ここで生活をしてみて「自分で生活を形づくるとはどういうことなのか?」というぼんやりした問いに、自らの身体経験をもってして輪郭を見出したかったわけだ。あるいは、なにかと市場や世間に依存していると同時にみずからを抑圧される暮らしに、抵抗のための希望の光を掴みたかったのかもしれない。

昨年ここに滞在した友人のおすすめで、ぼくも同じエコヴィレッジのとある家庭に居座ることにした。30代前後のカップルで、ホストである彼女の方は冬の間にレストランのバイトをして生活費を稼ぎ、彼氏は自身のバンドや音楽編集みたいなことをちょこちょこしている。このエコヴィレッジに住み始め3年ほどであり、今はひとつの物件を間借りしながら、ゼロから新しい自分たちの家を建てている最中である。

建設中のお家(上記はトイレ兼モノオキ的なやつ)がたつ場所。家はまだない

さて、というのが背景で、ここからはぼくの中に渦巻いている感情に無造作に言葉を与えていきたいと思う。きれいな物語になどは決してならない。テーマの一貫性もない、心に渦巻く断片をそのまま放り投げているだけである。役に立つ教訓なんて、ぼく以外の他者にとって全くないでしょう。でも、それでいいのだ。

自らの手垢と想像力

日々、食べるに関しても住むに関しても、なにか欲望が発生すればそれを満たすために、商品やサービスをお金で買うくらし。でも自分が住んでいる家の木がどこから来たのかも分からない。一食分の食事がテーブルに並ぶ。そこにどれだけの人が関わり、どれだけの国を、距離を経由してここに至るのかも分からない。

実は人間はとんでもないことをやっている。というのは、その土地でできたもので人間の体が構成されているわけではなく、ものすごく遠くからやってきたものあるはいもともと自然物ではなかったもので体を構成しているのですから。これは本当は自然の摂理に反することです。いずれにしても土地との関係性がどんどん薄れていっていることは確かです。
「未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる」より

そもそも、そんなことに想像を巡らすことも、ない。滞在先ではご飯を食べる前に「母なる大地、空、ありがとう。みんな、食卓に共にいてくれてありがとう。この食事に携わったー育て、狩り、運び、作ってくれたー人々を生命に感謝を。また、食事ができることを当たり前と思わないように」と祈りを捧げる。日本では「いただきます」と言っている。でもぼくたち、いや少なくとも、ぼくはただ言っているだけであったと恥じらう。気持ちの省略が知らん間に起こっていた。

上記は卵パックを溶かして作った、着火剤のようなものである。サウナの火を焚くときに用いる。そんなことができるのか!とその発想におどろく。ブリコラージュ。この前チーズケーキをつくったときにケーキの型がなくて、牛乳パックで代用したのを思い出す。ぼくたちは日常の中で余分に買わなきゃいけないものが、果たしてどれだけあると思い込んでいるのだろう。

また、滞在中の仕事のひとつは網戸をつくることだった。フィンランドは網戸なんてないのだ。でも近年は気候危機の影響で夏も非常に暑い。窓を開けたいけど虫は多い。窓枠を測り、木材を切り、ネジで止め、ヤスリをかけ、網を張る。ノミなんて生まれて初めて使った。

こうして、生活のところどころに手垢が残る。その手垢によって、この暮らしの「来歴のプロセス」というものが自分に染み渡る。苫野一徳さんの「愛」という本によれば、「好き」はエゴにもとづく感情であるが「愛着」には対象への慈しみが見いだされる=自分のエゴを超え出る契機が眠っている。加えて、歴史性が重要らしい。この家に感じた手垢ってのは、この愛着の香りなのかもしれない。

そして、これは根源的独占に対する抵抗でもある。その抵抗には「自分でも出来るのかも」とほんの少しの想像力と、「やったことない」という不安や面倒を乗り越える勇気が必要だ。でも、それが染み込んでいけば、究極的には生きる選択肢は確実にふえるような気もする。思い出せば、小学生のぼくは、姉と共同の部屋しかなくて、でも自分の空間がほしくて、ダンボールでリビングに秘密基地と称して空間を自作していたものだ。そこにロボットや遊戯王カードを隠して。そのときは呪いなんて何もなく自由だったのかもしれない、今は意識的に抵抗して呪いをとくために足掻かないといけない。自由は所与のものではなく闘争・もがきの果てに開かれていく過程なのだろうか。

あと初日の夕食の会話で衝撃だったのは、「コロナ禍の影響でフィンランドの田舎のコミュニティでは、ヤギを飼うのがブームになり値段が高騰するから、今の80€から値上がりするから早いうち飼うか迷うよねえ〜」というくだりだ。コロナ禍でグローバルな供給に支障をきたす懸念から、やっぱ自分で生産できるものは自分でしよう、あれ、ヤギって子供を産まなくてもミルク出してくれるから良いじゃん!ってことらしい。相場は知らないが、ヤギ80€は安すぎではないだろうか。

サステナブルってなんだ

間借りしている賃貸物件には水洗トイレも一応ある。しかし、基本的には屋外の電力も水もいらないコンポスト式のトイレ("野ぐそと水洗トイレの中間にあるもの"らしい)を使うことがルールである。ぼくはそうしたトイレを使うのは初めての経験だったし、きつかった。だって用を足していても落ち着けないし、臭いし、トイレに行くのは少し憂鬱な時間になった。

右端がトイレ。左には木にくくりつけた洗濯物。

フィンランドの家には、基本的にバスタブはないが、この家にはシャワーもない。蛇口からお湯もでない。そのため、体を洗うならばサウナへ行き、薪を割って火を起こして、水を温める必要がある。まあ、面倒なのだ。

日本では個人で1日に300㍑近い水を使い、半分がトイレとシャワーで占められるらしい。これと比べたら、やはりエコヴィレッジは"サステナブルな暮らし"なのだろうか。どのくらい資源を使っているのか、ぼくには正直わからない。毎日木を燃やしてどのくらい何がどうなるのか。でも気持ち的にはなんだか色々とメディアを賑わすサステナビリティの取り組み!サステナブルな暮らし!という言葉のツヤツヤした感じとはかけ離れたものがここにはあった。

だけれども、10日間すごして、やっぱりぼくは水洗トイレのほうがいいし、浴槽めっちゃ恋しいし、みんなこういう生活しようよなんて、まったくもって言えない。そもそもこんな環境に誰もがすぐさま住めるわけでもない。ただこのカップルはこの生活が当たり前で、彼ら自身の信念に沿っているわけで、じゃあぼくだって環境危機に責任も多かれ少なかれ感じるわけだけど自分の動物的な欲望や快楽も当然あって、どうすればいいものか。ぐわんぐわんしてる。やっぱり自分なりの妥協点や納得した生活様式が必要で、「生活をつくる」とはそういうことではないか。

自然に浸る、生命に向き合う

サウナはフィンランドに来て頻繁に入っている。アパートのサウナにジムのサウナ、市民が違法を乗り越えて作ったヘルシンキのソンパサウナや、新設されたLöylyなど多様である。

滞在先カップルの彼氏さんの方は、シャーマニズムに傾倒している。それもあってか、サウナに入った初日にサウナは「もっとも自然とつながれる場所なのだ」と言っていた。リラックスするとか、コミュニケーションを取るとか、現代的にはそうした用途が大きいだろうし、その用途がないわけではない。でも彼はそこに精神的で霊的な何かを見ていた。

余談だが、縁側は日本でいう、自然と人口(家という境界)のインターフェースであるが、サウナもそうしたつくりを見いだせるかもしれない。湖や海へ入りにいく足場のようなところで休憩し、ぼーっとするのは縁側的である。

滞在先のサウナは海に繋がっていなかったが、出てすぐに大自然に囲まれる。性別関係なくみんな素っ裸で、裸足にもふもふとした苔の感触を楽しみ、心臓の鼓動が全身を波打ち、素肌のほてりに外気を感じ、吹きゆく風に呼応する木々や葉の音に全身を包まれ、落ちゆく夕陽と朱い空を眺める。そんな時間である。あらゆるものに開かれている体験。

そして最終日には、野生の鹿を見た。そろりと近づいて(裸で)いって、目があって数秒、「あ、逃げる!」と思った瞬間に変な鳴き声をあげて軽やかに駆けていく。オイオイ君たちってそんな声で鳴くのかい。しかもそんな華麗にジャンプできるんかい、美しい...。奈良公園の彼らから抱くイメージとは大違いである。

あ!あと、ボランティアとして来てた別の方が、フィンランド人の仏教徒だったんだけど、ほんと不殺生を自らに律してたのがけっこう衝撃だった。拾った野いちごのバケツから小さい蟻が出てきたら、一匹ずつ家から森にもどしてあげたり、道端の飛べないトンボを道路脇によけてあげたり、しかもそうしたときはほんと慈悲がにじみ出てる雰囲気をぼくも横で見てて感じた。

その日暮らしの時間感覚

ボランティアは平日5-6時間の仕事を行う。ここでの暮らしは、朝8:30からヨガを行い、9時から朝食。10時ごろから13:30くらいまでその日の作業(網戸をつくったり、家の土台を敷いたり、屋根を取り付けたり)。ランチを取り、15時から16時半か17時ごろまで作業を再開。その後は、とってもまちまちであり、20時ごろに軽い夕食(大体サラダかパンのみ)のときもあれば、23時頃にパンケーキが出てくるときもある(衝撃だった)。夕食の前後どちらかでサウナに入る。

フィンランドの典型的朝ごはん・オーツ粥。初めて食べた。なめていたがバター+バナナ+シナモン+レーズン+ハチミツの組み合わせにハマり今も家でも毎日食べている

とある1日では、17時に作業を終えたあと、2時間ほど「マサ!鉄拳をやろう」と言われてPCで鉄拳7をやり、その後に3時間ほどRPG型のボードゲームをやった。また別の日には、午後の仕事はすっぽかして「晴れてきたから野いちごを摘みがてら湖に散歩にいこう」と片道1時間、湖まで歩く。

トリホウダイ ノイチゴ

大枠のスケジュールはあるもののないに等しいのだ。自分でスケジュールをコントロールするという感覚が完全に失われる。夏のフィンランドは日も長いので、23時に夕食を食べてても明るかったりするから、コントロールを失うとともに時間感覚も曖昧になる。1日1日の出来事が、その時々の状況で決まっていく。自分で時間をうまく使えない...と少しばかりの不快感は滞在中つねに伴った。でも細切れにした時間を所有して、一つひとつTODOを消化する達成感をむなしくも感じるようになる。うまく時間を使うとは、どういうことなのか?

他者とともに生活する、他者につくられる

前述のとおり、スケジュールを自分でコントロールできない。それに加えて"この村の、この家の、ならではのやり方"みたいなものがあるのだ。

コンポストトイレを使え、シャワーではなく火を起こして体を洗う、朝はヨガから始まる。自分と異なる他者とともに生活をすることで、他者の生活の実践が、その背後にある「生のかたち」とでも言おうか、そういったものが自分の中に流れ込んでくる。

いろいろ栽培してるビニルハウス

職業柄、自分と異なる他者へインタビューをすることなどは多々あった。でも決定的に違う。やはりそれは彼らの<外側>に立脚していて、眺めているにすぎない。でも他者と生活をすることは、ともに生活をつくることでもあり、<内側>に立っている。だから自分の中に今までになかった「生のかたち」に自分が変えられていく。

<わたし>の夢ではなく、<わたしたち>の夢

滞在先カップルのふたりが一緒に住み始めて、まだ間もない。彼女さんの方は3年この村におり、彼氏さんはちょこちょこ訪れてはいたが、完全に一緒に住み始めたのはここ最近だとのことだ。

まだ、家を建てるのすら5年を見込んでいるので、何もないに等しい。加えて、彼らは貯金が十分にあるわけでも(おそらく)ない。しかし「この場所をリトリート・センターにしてヨガやセラピーやシャーマン的なあれこれをやりたいんだよね!」みたいな夢を二人で語っていて、なんともまぶしい。

聞いた所、リトリート・センターは彼氏さんのほうが言い出した夢なのだが、それが伝染して、彼女さんもわたしもそこでヨガやりてえ!となったらしく、いつの間にか<わたしたちの夢>になっているのだ。なんかこう書いてたら特別なことではない気もするんだけど、すごいなって思った。だって両親を見ても、二人の夢っていま持っているのかな、いや聞いてみたこともないんだけど。なんでしょう、<わたし>だけでは描けなかった夢が現れるって美しいなって思った。こういう関係性、憧れるな。周りの友達で恋人・パートナーがいるひとってどうなんでしょう?<わたしたちの夢>みたいなのってやっぱみんな持ってますか?

別様のくらし。オルタナティヴというけれど

でも一番、大きな抽象度で感じたのって、どのようにでも生きてけるじゃん!って感じられたことでした。この留学中の2年間、ほぼ仕事してないに等しくて貯金は減る一方なんだけど(そろそろ仕事しなきゃ!)、あれ自分って仕事に自分の承認を委ねていたな、とか色々呪いが解けた気もした。でもこの村においては、ぼくは一層「何者」でもないわけです。デザインができるよりも、キャベツに群がる大量の芋虫を追いやれたほうがなんなら重宝される世界観だ (ぼくは無理だったからおとなしく畑の雑草を抜いていた、だって本当に大量なのだ)。

社会的にはぼくたちは正規雇用者じゃないし、平均年収よりうんと低い。でも彼女はたとえば毎日家を建て、畑を手入れし、ご飯をつくり、これでなんで社会的に価値がないと見られるの?おかしくないそれ?

みたいなことをカップルの彼氏のほうが言っていた。実際に、彼らはなんとか生きている。その日暮らしだけど、安定的な収入や評価などに目もくれない。でも自分たちが信じるものと<わたしたち>の夢はもっている。そんなふうに毎日を形作っている。ぼくにしたって10日間、収入はうまれないが支出もほぼゼロでボランティアするだけで寝食をまかなえた。なんというか、いわゆる自分の生き方を考えるってこのレベルで考えることなのかも、って考えさせられた。とはいえ、環境が変われば欲しい物でてくるし、お金やっぱいるじゃん!ってなるとも思う。でも、どのようにでも生きれるっていう実感があるかないかって、なんか不安と抑圧で構築された現代社会で生きる上で決定的に大事な気がする。

一番すきな白い苔。アア、神聖さすら感じる

最近エクソダス・フロム・イショクジューという大好きな連載があって、1日3食たべなくてもよくね?拾った石うってお金になるんじゃね?みたいな、日常のなかの実験なのだが、まさに自らの身体をもって呪いを解いていく姿をみると、勇気が溢れてくる。オルタナティヴなんて言葉がイノベーションうんたらでは流行っているが、たしかにキラキラしててかっこいいんだけどね、なんかもっと大事な別様の日常ってこういうことから考え直すことなんじゃない?って思った。

唐突におわり

こんな感じです、エコヴィレッジ。といってもエコヴィレッジどんなん!ってあんま伝わらないだろうけど。経験を記述するなんてことは無理な試みなんだよ、でもやっぱり書かずにいたら先に進めなそうだった。とても貴重な体験になったけど、個人的に悩みというか向き合わないといけない問いも増えてしまった。いやはやだ。答えは見えないのに向き合うべきことばかり増えていく。そんな滞在記録。


Twitter:より断片的に思索をお届けしています。 👉https://twitter.com/Mrt0522 デザイン関連の執筆・仕事依頼があれば上記より承ります。