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コモンズの再生を通じ、ケアする市民性を回復する

公共は誰が担うのか?この問いは、本メディアを立ち上げた背景にあるひとつの問題意識でした。その際、指摘したように、公共には「お上・政府が担う」というイメージがまとわりついています。日本は、古くから貴族・武士・農民などの役割や上下階級の名残があるのかもしれません。または他国のように市民社会を革命により勝ち取ってきたのでなく、戦後に上から「降ってきた」ので、ぼくたちも国を統治していくための意識も育まれていないこともあるのでしょうか。

非常に大きな問いですが、今回はこの問題に対して「コモンズ」や「ケア」の概念を通して考え、実践のかたちを模索してみたいと思います。

ケアするのは誰か?

ケアという言葉が身近でない方も多いかもしれません。ケアと聞いて何を思い浮かべるでしょう?わかりやすいのはヘルスケアという言葉に代表されるように、医療福祉のイメージがつよいかもしれません。例えば、高齢者のケアをする介護士、といったように。しかし、ケアはもっと広い意味をもちえます。

ケアは人類的な活動であり、...、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境であり...あらゆるものを含んでいる
Fisher, B. & Tronto, C. 1990. "Toward a Feminist Theory of Care" より

つまり、とてつもなく色んな活動がふくまれています。ぼくたちは生まれた瞬間からケアされています。赤ちゃんは自分でご飯も食べれないし、おむつも替えられない。家族や周囲の人々からケアされないと生きていけない。たとえ年齢を重ねても周囲の支えがいるし、ひとり暮らしで風邪をひいたときは心細いものでしょう。「あ〜、ちょっと喉が乾いたぜ」とコンビニでジュースを買うことだって、(システムや店員に)ケアされていると言えるかもしれません。もし、ケアを受けている人に対するイメージが高齢者や赤ん坊だけであれば、それは自分がケアなしでは生きていけないことに気づいていないのでしょう。

また、日々の中で人はたくさんのケアを提供しています。肘を怪我した友達の荷物をもってあげたり、植物に水をやることだってケアの活動です。ケアをする人=介護士、ケアを受けるもの=社会的な弱者では決してなく、"本来"だれしも人間は、ケアされ、ケアをすることで生きています。

FisherとTrontoによると、ケアとは4つの局面があります。

1. 関心をむける (Caring about): 周囲にケアの必要性があることを認識する。例えば赤ちゃんが泣いているのはなぜか、関心を向け、何が必要かを見極める

2. 配慮する (Caring for): ケアの必要性を認め、それを誰かが引き受け、何かをなさねばと状況に応える

3. ケアを提供する (Caregiving): 責任を引き受けたのち、実際にケアを提供する。

4. ケアを受け取る (Care-receiving): ケアに必要性が満たされたのかを検討し、さらに必要なものはないかとプロセスを繰り返す

Fisher, B. & Tronto, C. 1990. "Toward a Feminist Theory of Care"より

自分へ、周りの人々へ、地域や社会の環境へ、地球へ...あらゆることへ注意を向け、状況を引き受け、応答し、重要・必要なことがらを提供し、またそれを繰り返す。これこそ、世界をより善くなるように保ったり、修復させたりするような、ケアの一連の実践なのです。

しかし、先に介護士を例にあげたように、現在は人間の営みであるケアの活動が不平等なありかたでなされています。もちろん、怪我をした友達の荷物もつくらいのケアの営みは誰しも行うでしょう。とはいえ、実際に「ケア」と言葉をきいたときに、ケアワーカーが思い浮かぶように、多くのケアの営みをだれかに任せているのです。そして人々に代わりケアを行う彼らは決して社会的に評価されていません。

なぜこうなってしまったのでしょう。なぜ、ぼくたちはケアという活動を矮小化してしまったのか。なぜ、ケアを誰かに押し付けるようになってしまったのか。

市場に外部化するようになったからです。犬の散歩も、年老いた家族の世話もそうです。伊藤計劃のハーモニーというSF小説では、自身の健康まで外部化する世界が描かれますが、近しい世界になりつつあるといえます。
コンビニの例を先に挙げました。コンビニの店員さんにお礼も言わない人はざらに目につきますが、なぜでしょうか。それは彼らを召使い程度にしか考えていないからではないでしょうか。自分でやっていたケアの営みを徐々に市場を通して外部化することで、多くの活動はどうでもいいものになり、それゆえにどうでもいいことをやっている他者は、どうでもいい存在に成り下がっていきます。それは、究極的に民主主義の根底の自由と平等を脅かします。

もし、一部の市民が、他の市民を、根本的に無能、あるいは、利用してもよい人びととみなすようになれば、いかにして民主主義は生き残ることができるのでしょうか
トロント & 岡野. ケアするのは誰か p. 53 より

ケアに基づく民主主義

近代民主主義の下で生きる市民は、<わたしの権利>の行使、あるいは、<わたしの能力>の最大限の開花だけに没頭していてよいのだろうか。すでに触れたように、わたしの潜在能力の発揮は、社会的環境によって左右されるのであれば、<わたし>を育むその環境に対して、なんらかのコミットメントが必要なのではないだろうか。
トロント & 岡野. ケアするのは誰か p. 7 より

これまでの民主主義の人間観では、自分にとって望ましい状態を描き、それを異なる立場の人々と話し合い、合理的に合意する強い主体が想定されていました。でも、人間は常に依存しあい、それゆえに誰もがケアを提供できるし、ケアされねば生きていけないものです。この人間観に沿って、民主主義を再構築していく必要があるのでしょう。

わたしたちの人生を生きるに値するものにしてくれるのは、選択を行使する能力だけではありません。良くケアするという、わたしたちの希望を満たす能力も必要です。
トロント & 岡野. ケアするのは誰か p. 49 より

さらには、人間が自分以外の他者へのケアを通じて輝ける、自分で望ましい選択を行うというものを超えて、自分を超えたものー子供やペット、家族、植物、共同体、地域、土地...ーに対してのコミットメントに、生きる愉しさを見出すことができる。ぼくたちは、そのためにもケアを回復しなければなりません。

コモンズの再生を通したケアの回復へ

さて、市場の支配とケアの回復をを考えるため、私有と共有(コモンズ)という切り口から考えてみます。筆者が留学していたフィンランドでは「万人権」「自然享受権」と呼ばれる権利があります。たとえ他人が所有していたとしても、土地や山、森にふらーっといつでもはいって、キノコやベリーを勝手に採ってOK🤟というものです。野イチゴは、なんなら大学のキャンパスにも生えているので、「お前さん、こんなところに生えているの!」と授業終わりにプチっとします。

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昔は日本でも森でキノコを採ったり、湖や川で魚を釣ったりし、そうした共有地をみんなで管理していたそうです。管理には”みんなが、いつでも、いつまでも使えるように”と全体や未来の人々へのケアが必要となります (内田樹 2020. 「コモンの再生」まえがき より)。こうしてみんなで管理される土地や財産をコモンズといます。でも今は私有地化され、法律でその土地のものを勝手に採ったりしたらあかん!となっています。

むかし、ヨーロッパの農村には、共有地とよばれるスペースがあった。共有地は村人だれもが利用していい場所で、農民たちはそこに自分の牛を放牧し、牛たちは共有地の草をはんで成長する。このシステムで村の平和が保たれていたのだが、あるとき知恵のある農民Aは、こう考えた。「オレの牛の数を増やして、自分が食べる以上の牛乳や牛肉を生産し、それを町で売ったら儲かるな」――そして彼は、それを実行に移した。農民Aは成功し、金持ちになった。それを見ていたほかの村人たちは、成功者を模倣し、自分らも牛の数を増やすことにした。
伊勢武, 2020. 共有地の悲劇―環境問題の原因を見つめてみる より

資本主義とは、目的なく資本が増幅するためのシステムです。なので、みんなゆったり共有していたら効率が悪いのです。そして、いったん私有地化されてしまったら、戻すことは大変です。上記の牛の例では、たとえ一人の村人が牛の数を増やしたら草がなくなり、近い将来みんな困るよね...と思い立ち、飼育し販売する牛の数を減らしても、他者は競争の原理が働き、さらに牛の数を増やすだけなので、変わるモチベーションもわきません。

このようにコモンズは私有化され、みんなで運営・管理することもなくなり、結果として「自分が今よければそれでいいんだ」「食えないやつは、生産しないから悪いんだ」という社会になってしまいました。冒頭につなげると、自分以外のことをケアできない、しづらい、していない社会と民主主義のかたちになっているわけです。

裏返せば対抗するひとつの方向性が、みんなで共有できる土地や資産を取り戻し、それを管理しましょうよ!ってことです。関心を向け、引き受け、ケアを提供する(運営・管理)するプロセスをコモンズを通して行うのです。この思想に基づき行われる取組を紹介していきます。

スウェーデンの自治体・地域コミュニティの協働による廃棄物のケア

スウェーデンの廃棄物管理はEUや国の政策によって規制されているものの、サービスの開発や推進は自治体レベルで行われています。結果、スウェーデンの自治体は、市民の間で廃棄物防止を推進する責任を負っています。ただ、廃棄物を「管理」するのと「防止」するのは訳が違い、新しいモデルやサービスの開発が必要でした。

ReTurenは、市民に廃棄物の量を減らすことを奨励するために共同で設計されたスウェーデンのサービスとして、(1)廃棄物処理のサービス、(2)使用済みのものを無料で交換できるショップ、(3)物の修理やアップサイクルを行うワークショップの3つの機能を持っています。

最初は研究者と自治体の廃棄物処理課の担当職員とが手を組み、プロジェクトを起案します。最初に必要最低限のプロトタイプをつくった上で、地域住民とともに協働をしていきました。第一歩として、さまざまなイベントを開催し、可能性のある活動をテストしました。そのイベントの一つが「カラフル・ノート」フェスティバル。地元の学童、近隣課、レコーディング・スタジオが参加し、子供たちは古いピアノを修理して再利用し、1ヶ月間、近所の広場に設置するなどの活動を行いました。こうしたフェスは、ReTurenの周囲に人間関係を発展させ、そうでなければ関わりを持つことが難しかった住民にリーチできる方法でした。

2つ目のアクションは、より日常的な改善に住民を参加させることでした。例えば、利用者は投票でReTurenの営業時間を決めました。3つ目のアクションは、ReTuren の継続的な評価に地域の協力者を参加させること。利用者や住民からのサービスの運営や活動後の会話・アンケートを通して意見を集めたり、定期的に主要な関係者と取り組みや課題、サービスの発展について対話を行いました。最後に、パイロットテストを開始してから7ヶ月後、ReTurenの継続のための戦略を共同で開発することを目的としたワークショップを開催しました。

廃棄物をケアする(防止する)ための共有されたプラットフォームとしてReturenは機能し、完全に市民の手によるのではないにしろ、市民と自治体双方によってプラットフォーム自体が共同管理されるようになりました。その協働プロセスにより、市民と自治体が共に廃棄の現状を学び、見えていなかった問題を可視化することで、ケアの機会や気持ちが育まれていったプロジェクトです。

Commonsを再生するプロジェクト

前回とりあげたDark Matter Labも先導するCivic Capitalという取組みでは、個人が私有するのではない共同体が利益を得られる資源として「市民の資産」を謳い、これらを掘り出し、管理し、増幅させていくためのプラットフォームを構築しています。

Civic Capitalは、現在と未来のコモンズおよび集合的な富のために、次世代のシステミックなファイナンスツールおよびモデルの開発を探求し、実験することを目指しています。これにより、都市、市民、コミュニティ、投資家、企業が共に働く方法が再構築されると信じています
https://www.civic.capital/ より

コモンズ・市民の資産の例としては、土地、建物、空気、水、木、データ、下水道、道路、集合知、公共交通インフラ、エネルギーの流通システム、公衆衛生、コミュニティ、共有された未来へのビジョンなど有形・無形に問わず、公共と共同体にとって価値を生み出すものとして定義されています。ファイナンスツール・モデルというのは、所有権を起点にした経済システムではなく、共有する市民の財産を起点にあたらしい経済圏をつくりだす、と捉えられるでしょうか。

Civic Capitalがプラットフォームとして担う役割は大きく3つあります。

1. コモンズを改善している世界的なイノベーション、実践、ツール、モデルの例を広く普及させる

2. カナダの市民資本の生態系に関するスキャン、地図、世論調査、調査などの研究プロジェクトを共有する

3. 模範的なイノベーション、実践、ツール、モデルを中心とした実験で、コモンズの再生、回復、発展を約束する世界的なベストプラクティスから着想を得る

例えば、多様な事例をレポートにまとめているため、ここでは2つほどここから紹介します。

①ALASKA’S PERMANENT FUND (p.49)
アラスカで大量の油鉱床が発見され、1969年に油田の貸し出しによる9億ドルのボーナスから生み出された収入が急速に使い果たされ、知らぬまに将来の世代に利益をもたらす資源が不足していることを知った、政府と市民は衝撃をうけました。結果、アラスカ市民の投票が行われ、石油収入の少なくとも25%が将来の世代のための専用基金に投入され、将来の立法者が投資方法を選択できるような信託を創設することになりました。このように、長期的な未来、そこに生きる市民のための市民資産を保全した事例のひとつです。

②RES-COOPS (p. 80)
REScoopsは、協同組合をとおして市民が地元株主となり、エネルギー価格の設定だけでなく、投資決定にも積極的に参加することで、直接の市民貢献によるエネルギープロジェクトへの資金調達を可能にするための学習ポータル。 まさに、エネルギーというコモンズを市民がみずから価格も決めながら管理しケアする事例です。

おわりに

民主主義には共同自治が欠かせませんが、そのプロセスを通じてしかぼくたちは本来必要なケアする人間性や市民性を取り戻せないのでしょう。コモンズに関連する実践は一つの希望を与えてくれます。

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Reference

Civic Capital [https://www.civic.capital/](https://www.civic.capital/)

Dark Matter Labs. 2019. BUILDING CIVIC CAPITAL https://uploads-ssl.webflow.com/5ddbd6d8c8721f339f8284ef/5ea18eb53e44c4667e1cfebf_0411_Building%20Civic%20Capital%20(compressed).pdf

Fisher, B. & Tronto, C. 1990. "Toward a Feminist Theory of Care"

Light, A & Seravalli, A. 2019. "The breakdown of the municipality as caring platform: lessons for co-design and co-learning in the age of platform capitalism"

Tronto, C. & 岡野千代. 2020. ケアするのは誰か 新しい民主主義のかたち

内田樹 2020. 「コモンの再生」まえがきhttp://blog.tatsuru.com/2020/07/20_1520.html

伊勢武, 2020. 共有地の悲劇―環境問題の原因を見つめてみるhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/427954/100600007/


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