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日本語の弱点と教育改善の必要性を感じた出来事

新年から公園で子供を遊ばせていた時に、他の子供と遊んで驚いたこと

それは5歳の子供が英語を話す人を『英語人』と呼んでいたこと

肌の色、人種でも、アイデンティティの上で重要になる国籍などでなく、英語を話す人を一括りに『英語人』と呼んでました。

5歳の子供は妻(フィリピン国籍)の顔見て、『顔が英語人っぽいなぁと思ったけど英語人だった』と。
自分も英語を話してたら英語人だったんだねと。
英語人の言葉は何言ってるかわからないから辞めてと言われました。

この括り・表現は差別的にも取れて、誰にも得にならない表現だなぁと個人的に危機感を感じました。そして親も注意しないんだなぁと不思議な感じを覚えました

5歳の子供が作った単語なのか、日本語という言語の構造上、分類のプロセスとしてそうなるのかはまだ不明

子供本人になんで英語人と呼ぶかと聞いても、英語を話すから英語人とのこと

初めて聞いた単語で驚いたと妻に話したら、小学校で外国人の英語講師はみんな英語人と呼ばれているとのこと

外人という表現が排他的だから代用表現なのか

全然改善されてないけど

自分が子供の時(20-30年前)から大した進歩をしてないこの国の教育

意識や教育が問題。

10年程前から4年近く大阪に住んでた時も感じたことも思い出しました。


関西、大阪にいたときのことですが『関西人』『関東人』って言葉を日常的に聴きましたた。(この表現はほとんどの場合、東京ではあんまり使わない)

関西に3年以上住んでも私が「関西人」になることはなく、おそらく定義は「関西弁を喋れる人」、もしくは「関西で生まれ育ったひと」だろうけど、関東人扱いされ続けるとそれはあくまで「外部の者」「よそ者」として扱われるので、無意識ではあるだろうが、罪や排他的な意図はないだろうが、どうしても言語的に壁を作り、決して混ざることはない、という意識を与えられ、これは簡単には変えられないものだなぁと思いました。

「○○人」という表現が子供が使う・自然に学んだ言葉自体に悪意はないけど、それに排他的な特性があるって大人は知っているはずなのに、日本語なんて歴史ある言語なのにそれを教えてこなかった・疑問視しないのは意識の問題と思いました。

こういったことは、対海外だったり、多様性が求められる海外の労働環境においては、よりセンシティブな問題になります。


この事実に関しての共有は、なんかなんでも不謹慎とかいうTwitter民ぽくて嫌だとは思ったのですが、興味深く、また日本はDiversity & Incusionという世界スタンダードからはまだまだ遠く、これは学校教育が先か、企業での研修などが先か。優先度としてはやはり「教育」だと個人的に強く思いました。


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