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HSPさんとADHDさんは紙一重

これは完全な私の持論なんだけれど、HSPとADHDって紙一重なんじゃないかと思っているの。自分がHSPであることを公表してから『実は私もHSPで、、、』とお話ししてもらう機会が増えたんだけれど、HSPである人の裏の顔はADHDで、ADHDさんの裏の顔はHSPのように感じることが多々あるんだよね。

これは私自身にも感じることで、HSPという特性を持って人の感情を感じ取りやすい反面、そんな自分に嫌気が刺したり、人に合わせられない自我やこだわりも強く、その一面からはADHDを感じる。

こういった特性に明確な判断基準ってなくて『多様性』って言葉だけで簡単に処理して欲しくないんだよね。

社会は常に様々な問題で溢れていて、LGBTQも、人種差別だってまだまだ存在するのが現実。

誰かが言ってた『愛があるから戦争は起こるんだ』と。これは理にかなっていると思っていて、自国を守るため、自分の家族を守るため、自分の子供たちの未来を守るために戦わなければならない。矛盾しているようで理にかなっているようにも思うの。自分の大切なものを守るために別の何かを犠牲にしなければならない場面ってあると思うの。自分の子どもか、他人の子どもか、どちらか一人しか助けられないとしたらどちらを救う?

災害現場のトリアージや、リストラもこの感覚に近いと思うんだよね。より助かる確率の高い人の命を守るために重症者を切り捨てなくちゃならなかったり、より多くの社員を守るために一部の社員に辞めてもらわなきゃいけなかったり。生きるって、時に残酷だなぁって思う。

社会って常に競争なんだよね。学校に入るには入学試験があるし、会社に入るためにも入社試験や面接がある。そうやって誰かよりも優れていないと生きていけない、生き残れないと潜在的に刷り込まれていっているような気がする。

本当は競争する必要なんてないのに、子どもの頃から競争の場面に幾度となく立たされてきた気がする。競争して、誰かに"優秀だ"と言ってもらうことが『正しい生き方』だと教え込まれてきた気がする。その環境に居続けた結果、誰かに『あなたは優秀ね』と言ってもらえないと自分の価値を感じられなくなってしまうんじゃないかな?

SNSの世界は今日も承認欲求で溢れていて『なんだか苦しいな』と思うこともあって、時々SNSの世界から離れたくなるんだよね。キラキラした一面を切り取りやすく、それがその人の生活の全てではないと分かりながらも、無意識のうちに自分と比べてしまったり。SNSの中の世界と現実のギャップに苦しんでいる人は多いんじゃないかと思うの。まさに仮想現実で、どこまでがリアルでどこからが作り物かがわからなくなっているんじゃないかな?

自分が生きたい世界にチャネリングするっていう感覚と、他者と自分の人生に境界線を引くことの感覚を少しずつ掴んでいてね、人の人生をコントロールすることは不可能で、人の感情をコントロールすることも不可能。そして、『人間は自分にとって都合のいいことしかしない』っていうことが腑に落ちているかどうかなんだよね。

ついつい人の意見に合わせてしまう人は『人の意見に合わせること』が最善だと思ったからそれを自分で選択したんだよね。誰かに合わせることを自分で選択したの。

"NO"と言えない人はNOと言わないことを自分で選択したの。

その方が自分にとって楽だったんじゃない?

私は『誰かの人生変えよう』とか、『人を幸せにしよう』とか全く思えないのね。だってその人生選んでるの自分じゃん?って。それが自分にとって都合いいんでしょ?って。文句や愚痴で溢れた人生が楽なんでしょ?って。人のせいにできるって自分で責任取らんくていいからめっちゃ楽だもん。

生き方って本当に自由だと思っていて、誰かや社会に依存して生きることが悪いとも思わないし、バリキャリとして生きるのも、旅人として生きるのも、どう生きるかはその人の自由で、最終的に自分が行きたいゴールの設定も自由だと思う。

でもゴールが明確に存在しているのにそこに向かえていない人のサポートは全力でしたいと思う。自由に生きたいと言いながら他者に選択権を渡している人をよく見かけるんだけど、『本当はどっち?』って思うんだよね。

私は覚悟がある人が好きだし、全力で行動できる人が好き。あと、個性のある人も好き。無意識に自分が当たり前にできることってついついGIVEしてしまいがちだけれど、自分の得意なことを生かして生きていける人が増えたら、本当の意味で豊かな世界になると思っているの。人それぞれ得意分野も苦手分野も異なっているのに、それを均一にならそうとしているのが日本社会のように感じてしまうんだよね。

そうじゃなくて、もっと凸凹していて、苦手分野は存分に人に頼って、得意なことは『私に任せて!』って声を大にして言える社会がいいなって思うの。得意なことをしている時って苦じゃなくない?? だから心が病む確率も圧倒的に減るはずなんだよね。

生きるって、部活に夢中になったり、ゲームに夢中になる感覚でいいと思うの。強くなるために努力するのだけれど、それはしんどいだけのものではなくて、早く授業終わらないかなぁって部活の時間が楽しみになる感覚。ゲームをクリアするためにご飯を食べるのも後回しにして、何度も何度も挑戦する感覚。そんな風に生きられたら良くない?

冒頭の話に戻るけれど、この生き方って感受性豊かなHSPさんやこだわりの強いADHDさんが得意なんじゃないかなって。

自分の特性を生かして生きればいい。多様性を社会に認めてもらうんじゃなくて、自分の特性を活かせる生き方をすればいい。いろんなHSPさんやADHDさんを見てきて、感覚的な部分がとにかくズバ抜けているって感じる。なんでそんなことまで気づくの?とか、どうしてそこまで自分がぶれないの?とか。すごいなぁ、おもしろいなぁって思う。


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