片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 第7話
芻が皓皓を連れ出してくれた後、
「強引な手段を取ったことは謝るよ。ちゃんと話そう」
急に殊勝な態度に直った宛と並んで、藍は庭を歩いていた。
「頼むよ、藍。僕はどうしても、君に表舞台に立って欲しいんだ」
「今更だろう」
「子供の頃からの約束じゃないか。いつか僕が兄皇の座に就いたら、藍は芻と結婚して弟皇になる。そうして三人で国を治める、と」
宛がいつまでも昔の戯言を忘れないでいることに、苦々しい思いで舌打ちをした。
藍がまだ五つの頃の話だ。まだ、かろうじて母が生きていた頃の話。
結婚の意味も、愛だの恋だのという感情も知らなかった。
自分が宛や芻とは違うものであることもわからず、この先大人になってもずっと二人と一緒にいられるものだと、無邪気に、無知に、信じていた子供の戯言。
「周りが認めない」
「だから、それを認めさせるために、彼に君の片割を演じてもらうんだ」
「あいつを巻き込むな」
宛は藍を思って言っている。それはわかる。
だが、皓皓はどうなる?
「あいつはあいつで、自分の居場所に残して来たものがある。それを俺たちの都合で捨てさせるのか?」
「暮らしに不自由はさせない。保証する」
「そして暮らし以外のところで不自由を強いるのか?」
長年蚊帳の外に置かれてきた藍でさえ、皇族の暮らしの窮屈さは知っている。
富と権と引き換えに、責任と言う名の重荷に縛られる。
躍起になってそれを求める人間は多いが、皓皓がそれを望むようには、どうしても思えなかった。
「あいつの意思を尊重すべきだ」
「言ったな」
藍の言葉を掬い取って、宛は条件を突き付けた。
「もしも彼自身が此処へ残りたいと言ったら、その時も彼の意思を尊重するな?」
「……言わないさ」
昨晩のことを思い返し、藍は呟いた。
差し伸べられようとしていた手を、藍は確かに払い除けた。
もう終わった話なのだ。
あんな扱いをされてもまだ尚、こんな辺境に閉じ込められた忌子と共に在りたいと思う人間など、いるはずがない。
いるはずがないのだ。
「僕は、ここに残ることにします」
皓皓がはっきり意思を固めたことで、宛は大喜びだった。
「本当かい! いや、良かった。本当に良かったよ。多少手荒な方法でも、気を回した甲斐があったというものだ」
「改めて、お礼を申し上げますわ。皓皓」
芻が両手で皓皓の手を握る。
「でも、藍皇子の対として、ということではなくて……」
必死に訴えようとする声は、二人にどれくらい届いていただろう?
「そうと決まればお祝いだ!」
宛が用意させた宴は、宛と芻と藍、それに皓皓の四人だけの席。
それでもはしゃいだ宛が杯を重ね、芻が楽しそうに藍や皓皓に話題を振って、華やかな宴会となった。
藍は、ずっと黙ったままだった。
従兄姉たちから散々絡まれた藍が辟易して、「いい加減にしろ」と、お開きを告げる頃には、もうとっくりと夜が更けていた。
強引に飲まされた酒でふわふわと頼りない心地になっていた皓皓は、少し頭を冷やそうとあてがわれた部屋を出る。
自然に足が向う先は、最上階のあの露台。
扉の鍵は当然のように開いていて、先客は勿論、藍だった。
胡琴を床に放り出して、ただ欄干に寄り掛かって風に吹かれている。
気付いていないはずがないのに、こちらを見向きもしない。
「怒っている? ここに残ると、勝手に決めたこと」
宴の席では宛と芻の勢いに押されてまともに話せなかった。
でも、本当は、本当に真っ先に話し合うべきだったのは、話し合いたかったのは、藍だった。
「……馬鹿な奴だ」
皓皓の方を見ないまま、藍が呟く。
「うん」
「災いが降りかかっても知らないぞ」
「そうなったとしても、藍のせいにしたりはしないよ」
藍が吐いた溜息が、夜の風に溶けて流れる。
そっと寄り添った皓皓を、藍は拒まなかった。
「今日は弾かないの?」
放置された胡琴を見て言うと、
「酔いが回っているからな。いつも以上に酷いぞ」
言い訳がましい前置きをして、藍は弓を手に取った。
不器用に始まった旋律に、皓皓は耳を傾ける。
きっとこれから先も、誰にも迷惑を掛けないように、山奥のあの小屋で一人ひっそりと生きていくのだろうと思っていた。
宛に此処へ連れて来られて、藍と出会い、違う道が拓けた。誰かと共に生きる、という道が。
他に思い描けなかった未来。
その景色が色を変えたことに、本当は心踊らせているのかもしれない。
(宛様に感謝しないといけないな)
こちらの意志を顧みずに連れて来られたことは、まだ少し怒っているけれど。
夜風に負けそうな頼りない音色に寄り添うため、皓皓はそっと目を閉じた。
神様は、残酷だ。
皆に与えてくれるはずの灯火を一人にだけ与えてくれなかったり、気まぐれで病や飢饉を振り撒いたりする。
何故、彼だったのか?
何度も思った。
誰も傷付けまいと籠の中で息を殺し、それでいて、見も知らぬ誰かの不幸を憂いて蹲っていた、一人ぼっちの、鳥にすらなれない鳥。
何度も心の中で問う。
どうして神様は、彼にこんなにも酷い仕打ちをするのだろう?
翌日、皓皓が目を覚ましたのはいつもよりかなり遅い時間だった。
慣れない酒のせいか、頭がすっきりしない。
水差しの中の温い水を飲むと少しは目が覚めたが、まだ気怠かった。
のろのろと身支度を整えて部屋を出る。
階下に向かう途中で藍に出くわした。
「あ、藍。おはよう」
「ああ」
藍の視線が注がれている先に気付いて、皓皓は自分の髪を、そこに括り付けられた赤い飾り紐を摘まみ上げた。
「これ? 芻様に頂いたんだ。不敬だとは思うけど、付けないのも失礼だから」
ふと、藍が皓皓から目を逸らす。
「……いない、はずだったのにな」
「え?」
藍が零した独り言に、皓皓は首を捻った。
「晴れたな」
逸らした視線を廊下の窓の外に向けて、藍が言う。
「晴れていたら中庭で朝食にしようと、昨日芻が言っていたな」
「あの中庭は、芻様が整えたんだってね」
「ああ。俺が移ってきたばかりの時は、乾いた土と石塊しかない日陰だった。あまりに殺風景だからと、芻が花の種を植えたんだ」
それから、皇女が植えた花を枯らしては事だと、使用人たちが世話を始め、そのうち木が植えられ、東屋が立ったのだそうだ。
だから彼処は彼女のための場所。
藍が彼女を迎えるための場所。
相変わらず人の気配のしない宮を、藍と並んで歩く。
此処へ来たばかりの頃のような侘しさや不安は、もう感じなくない。
「芻のことだからな。多分、はりきって準備しているぞ」
言いながら、中庭へ続く扉に手を掛けた藍が、ぴくり、と肩を震わせて動きを止めた。
「どうしたの?」
藍の顔を覗き込んだ皓皓は、その色のない表情に底知れない不安を覚える。
(何、この予感?)
例えば、後で食べようと持ち帰った餅菓子を、机に置いたまますっかり忘れてしまったことがある。
思い出して手に取った時には、包みを開けるまでもなく、とっくに腐っていることが明らかで。
わかっていたのに開いてしまった包みの中、湧いた蛆のおぞましさに思わず包みを放り投げた。
あの時の、肌が粟立つ感覚。
決して良い時には働かない予感。
わかっていて尚、開けて確かめずにはいられない。
藍も同じだったのだろう。
ごくりと唾を呑んで、扉を押し開ける。
秋の花が咲く中庭の中心には、椅子と卓が置かれていて、芻がいた。
いや。いた、と表現するのが正しいかどうかは難しい。
豊かな金色の髪が卓上に広がり、白く細い腕がだらりと垂れる。
芻は、いつも彼女が手ずから整える卓の上で、仰向けに横たわっていた。
「芻?」
張り付いた上下の唇を無理矢理剥がすようにして、藍がその名を呼ぶ。
――こんなところで居眠りなんて行儀が悪いだろう?
そんな皮肉を言えば、起き上がって「そうね」と笑うだろう、と。
そう期待しているかのように。
「……藍」
だが、皓皓は気付いていた。
藍に見えていない、あるいは意図して見ないようにしている――
芻の胸を貫いて卓に突き刺さる、片刃の剣。
目の前の光景を受け入れられない頭が、その場に足を縫い止めてしまう。
一歩も動けずいる皓皓の隣で足を踏み出す藍を、どうしても、止められなかった。
藍が卓の前に立ち、芻を見下ろす。
考える余地があったはずもない。
そうするのが当然だと言わんばかりに、藍は芻に突き刺さった剣の柄に手を掛け、
「藍、駄目だ!!」
我に返った皓皓が叫ぶのとほぼ同時に、それを引き抜いた。
赤い色が散る。
芻の着物より、髪を飾る紐より、もっと赤い色。
火の神の羽だって、きっとこんなに赤くはない。
息を呑む音の後、絶叫が響き渡った。
後にも先も、あんなに悲しい声を、皓皓は聞いたことがない。
藍の体が、その場に崩れ落ちた。
「藍!」
縺れる足を叱咤し駆け寄って、今頃気付いた錆びた鉄の臭いに息を詰める。
胸の真ん中に穴を開けて、芻は絶命していた。
陽の光が反射して、銀色の刃が鈍い赤色に光る。
こぽり、と溢れた血が元から赤い着物を更に鮮烈に染めて、卓上に出来た血溜まりから雫が滴った。
長い睫毛に縁取られた瞼を閉じ、薄く開かれた唇はまだ艶やかで。
美しく、ただ眠っているだけのようで。
本当にそうだったなら、良かったのに。
「やぁ、おはよう。藍」
この場に不釣り合いな爽やかな声がした。
卓の向こうで、宛が足を組んで椅子に腰掛けている。そして、軽い調子で片手を上げた。
目の前の光景が見えていないわけがないのに、見えていれば作れないような笑顔で、宛は其処にいた。
あちらとこちらの間に境界線があって、隔たれた別の世界を継ぎ接ぎされているのかと、そう思ってしまうほ奇妙な画。
「お、まえ……」
「そうだよ。僕がやった」
宛が言う。嘘のように、呆気なく。
藍が力なく首を振る。
違う。
そんな答えを聞きたかったわけではない。
そう言うように。
「僕が、芻を殺した」
一文字一文字、言い聞かせるように丁寧にそう言うと、宛は椅子から立ち上がり、卓の上に体を屈め、事切れた芻の頰を撫でた。
その仕草は無邪気に眠る双子の片割を愛おしむそのもので、言葉と行動の噛み合わなさが気持ち悪い。
「これで、僕は両羽の力を手に入れられるのかな? ねぇ」
向けられた顔が芻とそっくりであることに、吐き気がした。
「皓皓。君が教えてくれたんだ。
『死んだ対の相手の亡骸を借りれば、一人きりでも鳥になれる』と。
そうだろう?」
「あ……」
喉から漏れた音は意味を為さない。
(どうして、それを?)
決まっている。
聞かれていたのだ。藍に打ち明けた、自身の秘密を。
誰にも気付かれず宮を抜け出すなど、出来るはずはなかった。
あの夜、誰か――おそらくは宛の息がかかった者に、後を付けられていたのだ。そして、皓皓が藍にだけ打ち明けたつもりの話を聞いていた。
どうしてずっと秘密にしてきたか。
何より、これを恐れていたからなのに。
不用意な自分の舌を、噛み千切ってしまいたくなる。
頭では理解していても、心の何処かではまさかと思っていた。
まさか、力欲しさに対の片割を殺める人間がいるはずはない。
そう思っていた。
「こんなこと、許されるはずが、ない」
この国において、対の相手を殺めることは重罪だ。
単なる殺人とは比べるべくもなく、深く、呪わしい罪。露呈すれば重い罰が科せられる。
が、実際に対殺しの罪で罰せられた例を、皓皓は知らない。
罪と罰以前の問題。
倫理が、必然が、魂が、許さないはずの禁忌。
決してありえない、あってはならない過ち。
「『一人きりで生まれた弟皇の皇子は、従姉の皇女を愛していた。
しかし、忌子である彼は彼女に拒絶され、逆上し「手に入らないのなら ばいっそ」と皇女の胸に刃を突き立てる。
残された皇女の対の片割は嘆き悲しみ、涙を流しながら彼女の仇を討つ』
陳腐だが、なかなか悲劇的で、大衆受けしそうな筋書きだろう?」
旅芸人が朗々と台本を読み上げるように、宛が自らの計画を詳らかにする。
「なぁ、藍。僕は知っていたよ?
芻は君のことが好きだった。君も芻のことが好きだったろう?」
藍の肩がびくりと痙攣する。
「芻と結ばれて皇家に舞い戻り、弟皇の座に着いて僕と共に国を治める。口では否定していたけれど、君は、そんな未来を思い描いていた。
でも、わかってもいたはずだ。そんなこと出来るはずがないと。
だって、君は片羽の『忌子』なのだから」
藍は剣を握り締めたまま、呆然と宛を見上げる。
「僕はね、君のことが嫌いだった。ずっと、嫌いだったよ」
淡々と吐き出される悪意で塗り固められた言葉。
だが、藍を切り刻んでいるのは、彼に向けられる蔑みではない。
「忌子でありながら僕より優秀で、役にも立たない籠の鳥のくせに、芻から愛されて。そんな君が表舞台に立った時、僕はどうなる?」
「俺は……」
「知っているよ、藍。それでも君は芻と、僕を愛している」
世界でたった二人だけ。
親にさえ捨てられた己の存在を認め、愛してくれた人。
その片方が失われ、奪ったのが、もう片方であるという事実。
「だから、君は僕を憎めない。抗えない。そうだろう?」
宛は藍の正面に立ち、手にしていた短刀の鞘を払う。
「さよなら、藍。僕に芻の仇を取らせてくれ」
振り上げられた刃が振り下ろされる前に、皓皓は藍に跳び付いた。
押し倒された藍の首の代わりに、皓皓の頰が切り裂かれる。
ちりっ、と熱が走り、遅れて痛みがやってきた。
「おまえ、」
「藍! 藍、しっかりして!」
力なく地面に転がったまま、藍の目が皓皓に向けられる。
何も映さない淀んだ暗い瞳。
ぞっとした。
「おや? 君が邪魔をするのかい? 他でもない、僕に神の力を手に入れる方法を教えてくれた、君が?」
宛の言葉に、心臓が破裂しそうに痛んだ。
だが、揺らいでいる場合ではない。
藍の力になる。そう決めたではないか。
「藍、お願いだ。起きて!」
皓皓の必死の懇願も届いていない様子で脱力していた藍が、不意に、弾かれたように跳ね起きた。
「皓皓!」
先程と立場が入れ替わり、藍に強く腕を引かれた皓皓のすぐ後ろで刃が空を切る。
「ああ、そうだね。君にもいなくなってもらわなくてはいけない。皇家の悲劇に、必要のない役だからね」
「どうして……」
淡々と述べる宛に、問わずにはいられない。
「どうして貴方は、僕を此処に連れて来たんですか?」
こんなことになるのなら、どうして?
「だって、あのまま芻が藍と結ばれていたら、面白くないだろう? 君という玩具を与えられれば、藍が大人しくなると思ったんだ。
でも、結果的にもっと劇的な方法を教えてくれたのだから、連れて来て正解だったな」
喉の奥に詰まった息を震えながら吐き出す。
覚悟は、決まった。
首から下げた鳥籠の飾りを開き、骨の欠片を噛む。
一瞬で鳥に変化した皓皓は、猛禽類が獲物を捕らえるように両足の爪で藍の着物の帯を引っ掴むと、空へと羽ばたいた。
何が起こっているのか、藍には少しも理解出来ていなかった。
皓皓が此処へ残ることを決めて、宛が宴を開いて、胡琴を奏でて。
朝起きて、芻に招かれた朝食の席に着こうと、皓皓と共に中庭に出て、それから。
それから?
ぼんやりと思考を巡らせる。
何故、飛べないはずの自分の体が宙に浮いているのだろう?
中庭の、あの円卓の上で横たわっているのは、誰だ?
藍たちを見上げて高笑いを上げている彼の顔を、知っている気がする。
「ああ。やはり素晴らしい力だ」
うっとりと狂気に満ちた笑顔を浮かべる宛が、一変して悲痛な表情を作った。
「誰か! 誰かいないか! 芻が、芻が!」
「如何なさいました? ……これは!」
飛び込んで来た鷹順が、中庭に広がる壮絶な光景に絶句する。
「芻様! これはっ……何故……?」
「藍が……」
宛に示され空を見上げた鷹順は、瞬時に背負った弓を取り、矢を放った。
矢は、宮の屋根を飛び越えるため高度を上げようとしていた皓皓の、右羽の付け根に正確に突き刺さる。
ぐらり、と大きく姿勢が傾げた。
「おいっ……」
何が何だかわからないまま、藍は皓皓に呼び掛ける。
落とされることを恐れているわけではない。
皓皓が必死で気力を手繰り寄せ、藍を掴む爪に力を込めるのがわかった。
しかし、どうすればいい?
背中に乗るならまだしも、こんな不安定な姿勢で飛び続けるのが無理なことは、鳥になったことのない藍でもわかる。矢が刺さったままの羽では尚更だ。
その時だった。
翡翠色の美しい鳥が、何処からともなく矢のように飛び込んで来た。
藍と皓皓にその存在を訴えるように目の前を横切ってから、鳥はある方向を目指し始める。
一瞬の判断で、皓皓はその後を追う。
翡翠色の鳥は宮の屋根を飛び越えて、すぐに急降下した。
ぐんぐん降りて転がるように着地した先は、宮を囲む壁のすぐ内側。等間隔に並べられた倉庫の前。
「藍様、皓皓様!」
着地と共に変化を解いた二人は、皓皓が懇意にしていた使用人の少女たちだった。
皓皓も転がすように藍を地面に下ろし、人の姿に戻る。
「君たち、どうして?」
「お話している時間はありません。急いで!」
藍たちを待ち構えていたように倉庫の一つの扉が開き、中からわらわらと宮の使用人たちが現れる。
「小翡、小翠。早く!」
後に続いて、二人、三人、いや、もっと。
藍の前に姿を見せたことのない使用人たちが、慌ただしく集まってくる。
そのうち一人が皓皓に駆け寄り、肩に刺さった矢を抜いて止血を始めた。
「おまえたち……」
地面に座り込んだままの藍を、一人の男が助け起こす。
「言い付けを守らず、申し訳ございません」
――自分の前に姿を見せるな。
藍が彼らに命じたのは、この十年間でたった一つ。それだけだった。
それなのに、彼らは今日に至るまでずっと、求められずとも食事を用意し、着物を整え、部屋を掃除して、藍が何不自由なく暮らせるように仕えてきてくれた。
その彼らが今、たった一つ下された命を破ってまで、藍の前に姿を現している。
「藍様、お逃げください」
藍は、彼らに「自分を助けろ」と命じたことはない。
だからこれは、彼ら自身の意思。
「状況を理解しているのか?」
「いいえ」
彼はあっさりと首を横に振った。
「しかし、貴方様が追われているということだけはわかっております」
「……宛に逆らうことになるぞ?」
この宮は兄皇から与えられたもので、主こそ藍という形を取ってはいるが、優先されるべきは宛の指示だ。
今、藍を捉えようとしているのは、他ならぬ宛である。
ならば使用人たちは当然、宛に従い藍を捕らえるべきで。
宛に逆らうと言うことはすなわち兄皇に逆らうということ。
反逆罪として問われ兼ねない。
「わたくしたちは、皆、ずっと藍様のことを見守っておりました。貴方様がどのようなお方か、よく存じ上げております。誰の御身を重んじるべきか、我々は我々で判断します」
小翡と小翠が中身の詰まった布袋を運んで来る。
皓皓が此処へやって来る時に持っていた、僅かばかりの荷物らしい。
「皓皓様。藍様を連れて行って差し上げてください。この宮の、籠の外の、広い世界へ」
「どうか、どうか。藍様をお護りください」
ぎゅっと抱き付く少女たちの頭を、皓皓が左右の手でそれぞれ撫でる。
「……任された」
誰かがはっと顔を上げた。
空にぽつり、ぽつりと鳥の影が現れ、こちらに向かって来る。
宛の臣下たちに違いない。
「行ってください。この場は、我々が」
使用人たちは各々対になり、鳥の姿を纏って、空へと飛び立って行く。
「藍様をお願い致します」
皓皓の手当てを終えた彼は、隣の女官の手を取って、鳥の姿を纏った。彼女が彼の対の片割らしい。
「……行こう。藍」
「だが、」
皓皓に促されながら、まだ躊躇いが残る藍の背中を、また別の使用人が押した。
「皓皓様。藍様を、お願い致します」
皓皓が頷いたのを見て彼は駆け出し、追い付いて来た別の使用人と共に、鳥になって、空へと舞い上がる。
叫びたいのに、声が出ない。
彼らが、藍が六つの時、初めてこの宮にやって来た当時から仕えてくれていた使用人たちであることを、藍は知っていた。
その名前も、本当は知っている。
「藍!」
再び鳥になった皓皓が、その背中に藍を乗せて舞い上がる。
まだ怪我は痛むのだろうに、皓皓は構わず羽ばたいた。
後ろの方で、激しく羽を打つ音が、ぎゃぁ、という鳴き声が上がる。
振り返ろうとする藍を遮り、背中から回り込んで来た翡翠色の鳥が、皓皓と藍の両脇を守りながら滑空した。
追って来ようとする宛の臣下たちは、全て宮の使用人たちの決死の突撃に阻まれている。
宮を囲む壁を飛び越え、二羽と一人は紅榴山の木々の上空へ躍り出た。
外の世界に焦がれる気持ちは、いつだって藍の心の中にあった。
あの夜、皓皓が連れ出してくれた時の、胸踊る感覚も覚えている。
それなのに、今は、どうだ?
こんなに広い空を飛びながら、どうしてこんなに息苦しい?
宮から離れるにつれ、山の標高は高くなっていく。
合わせて、鳥たちも高度を上げた。
今日の空は雲が多い。
籠の鳥が恋うた雲だ。
速く、速く。
高く、高く。
遠くへ、遠くへ。
ひたすらそれだけを目指し、飛んで行く。
上空の風は冷たい。そうだ。もう冬が近い。
震える手で掴んだ皓皓の背中だけが、今、藍が唯一縋り付ける温もりだった。
そして、とうとう、山頂へ辿り着いた時。
その向こうに開けた景色は、果てのない草原。
其処はもうこの国ですらない。
見届けた翡翠色の鳥が速度を落としながら、皓皓と藍の周りを大きく旋回する。
(藍様を、どうか)
聞こえないはずの声が聞こえた気がした後、彼女たちはゆっくりと二人から離れて行った。
皓皓はそのまま真っ直ぐに飛び続ける。
後に残して来た全てを、振り切るように。
「……芻」
唇からその名前が零れる。
ぽつり、と。
雨が、落ちてきた。
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