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ハタチのキモチ、ありのまま


誰にでも得意不得意があって、みんなが簡単にやってのけることを私は必ずしもできるわけではありませんでした。

これは高校を卒業した日に、私が教卓で最後に話した言葉。
クラスメイトとその親たちの視線を感じながら「今日でこの景色を観れるのも最後かあ」と、思ったかどうかはあまり記憶にない。



時は流れて2019年5月。
私は自分で選んで入学した大学を休学している。現在は東京に約1週間の小旅行中。宿泊場所は毎日違う。出会いと気づきの日々。

いまの私はすごく自由でふらふらしてて、
私みたいな人のことを許せない、認められないっていう人もいっぱいいるんだろうなって思う。実際そういう意見の人と触れ合うこともあって、「うんうんその考えもごもっとも」ってだいたいは思う。
(ちなみに高校生くらいの頃の意識高い系だった私もまた、いまの私の様子を見ていい気分にはならないと思う。)

社会に私みたいな人が大量に溢れ出したら大変なことになる。たぶん多くの人の生活が回らなくなる。私みたいにふらふら彷徨って好き勝手やってる人が楽しく生きられるのは、紛れもなくそれを支えてくれる人の存在のおかげ。

私の生活を大きな柱になって支えているのは身近で大切な人たちであるのはもちろん言うまでもない。そして、私の自由で快適でわくわくした生活は全て誰かの"全力"のお仕事によって支えられている。誰かの快適を見えないところで全力でサポートするって最高にかっこいいなあと思うし、まだ見ぬお仕事がこの世にはいっぱいあるんだなあって、日々新しいものと出会うたびに思う。


何して生きたっていい。

どんな仕事をしたっていい。

どこに住んで、誰のことを好きになってもいい。

そういうの全部、許してもらえるのは各方面から守られたとてつもなく有難い環境に身を置けている証拠であって、当たり前なんかじゃない。

愛も、お金も、生活水準も、

「私はどん底を何も知らないからこんなこと言えるんだろうな」って最近はときどき思う。その逆も然りで、上には上が、下には下がいる。

私は、産まれた時から今までずっと両親が欠けることなく愛情たっぷりで育ててくれたし、たまらなく大好きな弟もいる。地元を離れても仲良くしてくれるお友達をはじめ、人間関係や環境にも恵まれてきた。お金で苦労したり、人生の選択を諦めたこともない。後の人生にひびくような大きな怪我や病気をしたこともない。

それを思えば私が感じてきた挫折感って他と比べたら大したことなかったのかもな〜、、と思えてくる。そうしたらなんかちょっと寂しい気持ちになる。私の悔しかった思い出はほとんどが愛おしい記憶になって大切に蓄積されているから。
「あなたの経験は大したことないんだよ」って言われたら誰だって悲しいと思う。私にとっては、それが負の感情を伴う経験であればなおさら悲しい。


だけど、よく考えたら"大したこと"ってなんだ?

私が高校生だった頃、私の憧れの人は高校を休学して世界一周した。私は彼のことを親より先生よりすごい人だと、まるで神のように崇拝していた。(今も変わらず憧れである。)
でもそれと同じように、私の隣の席で朝から晩まで参考書にかじりついて寝る間も惜しんで受験勉強をする彼もまた、神のように天才的な努力家だった。

どちらが"大したこと"をしている高校生だったんだろう。はたまた両方そうなのか、両方当てはまらないのか。

人は自分が持っていないものを欲しがる。誰もやったことがない挑戦に「すごい!」と舌を巻く。いいねする。激しく憧れ、時に妬む。そして自分を恥じ、時に責める。
これらは全て、私自身が経験した感情である。

大学入試対策メインの学校生活が推奨される環境に身を置いていた私は、世界一周をする人を見て「すげーーーー!」ってなった。学生団体を立ち上げた同世代を見て「この人たち、私とは生きてる環境が違う!」「一緒にいれば私も変われる気がする!」って思ってついて行ったりした。(意識高い系真っ盛り)

(そんなこんなで多くのコミュニティを掛け持ちしたり各地で挑戦するようになって良かったのは、いろんな目線で物事を考える力がめきめき伸びること。気づきってのは出会いと挑戦の数以上にあるものだなあ。)

ファーストペンギンにはものすごい勇気と覚悟が必要だろう。間違いなく負担は大きい。情報がすぐに拡散されるこんな時代だからより一層アイデア勝負の部分だったり、気持ちの面も含めて苦労が多いと思う。

時代は確実に動いていて、親世代が生きてきたそれとは全然違う社会を私たちは生きていくことになる。変革の時代だから。時代の波に乗って先取りすることがどんどん求められて、もっと"個"の価値は上がるだろう。世界がもっと狭くなって、今以上に焦ったり不安になる要素は増えていくのかもしれない。


「そこにあるのは事実だけ。」

と、私が今とてもお世話になってる人がよく言っている。

私は、この言葉は「ピンチはチャンス」って言葉の上をいく言葉だと思ってる。
「ピンチは〜」は「チャンス生かすも殺すもその人次第」という意味合いが強いと思うけれど、「そこに〜」は「チャンスを生かすも殺すも無視するもその人次第」って言っちゃってるんだ。これはすごい言葉。

どんな気持ちでその事実と向き合うのかは人それぞれで決めていいこと。むしろ「私にはなんの感情も湧きません」ってのもあり。だって目の前には事実しかないんだから、全部あり。

ずっとポジティブでいる必要もないし、「この事実から何か学ばなければ、、!」と常に気負う必要もない。そんなことしてたら疲れちゃうし。(私は、この気負いすぎが元凶になって倒れたことが何度かある。)

こういう分野の能力がずば抜けて高いのが、赤ちゃんの方々。
お腹が空いたら泣いて、満たされたら寝て、好きな人に甘えて、苦手な人からの抱っこは拒む。思ったこと全部そのままやっちゃう。
赤ちゃんにそれ以上のことを誰も求めないし、かわいい顔で一生懸命に生きる姿がそこにあるだけで周りを癒す存在であり続ける。

だからみんな!赤ちゃんになろう!
、と言いたいわけではない。こんな結論に帰着するなんて現実離れしている気がするし納得いかない。

だけど私は、もう少し自分の中から聞こえてくる"声"を大切にしようと思う。他人から、世間からの評価なんてクソくらえで(きたない言葉ごめんなさい)、だってどうせ「そんな経験なんて大したことないよ〜もっと上がいるよ〜?下がいるよ〜?」って言われちゃうんだもん。
だから自分が自分のことを認めて褒めてあげられればそれでいい。それが始まりであって、かつ究極の結論でもある気がする。大したことかどうかなんて自分が決めればいい。

人にはそれぞれの得意不得意があって、好き嫌いもあって、幸せと感じる瞬間がある。
目の前にあるのは起こった事実だけで、私は私であなたはあなた。
出会いの連続の日々に現れる、とにかくたくさんの"すごい人"を横目に、私は私の心の声が示す先にある幸せを大切にしたいと思う。


やっぱり書いていると頭の中がどんどん整理されて、体験と言葉が浮かんでは消えてどんどん繋がっていく。この感覚がたまらなく好き。書き初めに考えていたこととは全然違うことを書いていたりする。今日も書いてよかった。

ただ、ここまで書くのに5時間ほどかかり、ここからは見えないが窓の外ではきっと街が朝を迎えようとしている。心の声に従って、私はこのまま眠ろうと思う。

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