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戸惑いと少しの淋しさの中で。


タッチパネルひとつで食事を注文できる店が増えた。


こないだは一人で回転寿司に行った。時々無性に食べたくなるし、タッチパネルで注文できる店は一人で食べやすい。何故だろう、好きに追加したりしても、人と食べるときなら気にならないのだが、一人だとお店の人が例えば注文を聞きにきてくれた時なんかに、「わ、この人ひとりでこんなに食べるんだ」とか、「またそれ?それ好き過ぎでしょ」とか心の中で思われてそうで(自意識過剰かもしれないが、、)、そわそわしてしまう。
その点、タッチパネルはそんなことは一切言ってこないし、気兼ねなく同じお寿司が好きだからとボタンを押せる。

注文ボタンを押すと、会計欄の数字が増え、やがて食べ物が届く。回転寿司なら新幹線のように、びゅーん、とレーンに載って。ファミレスなどでは、料理を運ぶロボット?(猫の顔がついていたりするときもある、)が運んできてくれるときもある。ロボットは、料理を受け取ると、礼儀正しく去っていく。

本当にそういうお店は都心に増えたなと感じている。地方や、田舎に行くと事情はまた全然違うかもしれない。


私は、実は未だに少し戸惑ってしまったりしている。

一緒に行った友達や親しい人の前では、そんな様子は見せない。いかにも、「今時はこうだよね〜」といった風に、慣れてます、という感じで操作する。両親が操作に慣れてない様子のときなんかは、得意げに教えたり見せたりなんかも、する。「今時」に順応してる様子で居たいのだ。

でも、ひとりで食べるとなると実は色々思ったり驚いたりしてるのだ。


回転寿司だと、お店に入ったときと、最後の会計のときだけお店の人と顔を合わせる。料理を注文、、つまり、タブレットの注文ボタンを押すと、料理が目の前に届く。このお寿司は、私がボタンを押してから、誰かが作ってくれたものなのだ。勿論そうなのだけれど、そのお姿は全く見えない。

タッチパネルでない、対面で接客してくれるお店でも、厨房はあまり見えないことが多い。
しかし、希望のメニューを店員さんに伝え、出来上がった食べ物を運んできてくれる人がいると、何と言うか、、作ってくれた時間と、手間を感じるのだ。

新幹線で届くお寿司は、それを想像するしかない。しかし、何故かこの想像が難しいのだ。下手すると、ボタンを操作しただけで自然にお寿司が出来上がって目の前に現れた感じにさえ陥ってしまう。

唐突だけど、太古の時代、私たちの祖先の人々の毎日は一日中食べ物を探す、得ることにエネルギーが使われたそうだ。そのDNAは、地球のリズムから言って短時間のうちに変わることはなく、私の中にも流れているだろう。

今だって、基本的に日々の糧を得るために会社に行ったり、仕事をするのだから同じかもしれない。だけど、東京の街はコンビニで溢れ、お金を払って食べ物や飲み物を手に入れることは手早くできることになったと思う。とても便利になったのだろう。


私はちょっと頭で考え過ぎるところがあって、だからこそ漫画家水木しげる氏の「夢?それはお腹いっぱい芋を食ってからのことですわ。」というセリフを忘れたくないと思っている。水木さんの著作の、「空腹」や「食う」ということの描かれ方は、私に欠けている大切なことだと思った。


そこからの意識からか、太古からのDNAか、私はタッチパネルの注文と、目の前に料理が現れることに驚いてしまうのだ。

注文ボタンを押したら、料理が一人でに手元に届く様な気がしてしまうのは、あくまで錯覚なのだ。その錯覚に騙されそうになり戸惑うけれど、見えない店員の方々を感じ感謝していたい。
ただ、、お店の経営上色々都合があって、タッチパネル注文になり、その分リーズナブルに外食ができるのだろうけど、何だか淋しい様な感覚は正直に言って、ある。


食べ物は、有難い。温かったら尚更有難い。
食事に感じる温かさは湯気と交流、人の気配なのだと、今時、の街の中で感じている。



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