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第2章 『親鸞ルネサンス 他力による自立』


安冨歩・本田雅人・佐野明弘『親鸞ルネッサンス 他力による自立』(明石書房、2013)の書評文


 本書で安富さんたちが提示しているのは「新しい形而上学」としての「他力」です。「形而上学」とは何かと云えば、もともとギリシャ語で“Metaphysica”とよび、「目にみえないもの」「物事の背後に存在する超自然的な存在」のことで、転じて哲学や思想では「思想の前提となる考え」となります。古代や中世の哲学や思想では、思考の前提に神や悪魔、天使を据えていたのは、「形而上学」が哲学では前提になるからです。一応、近代哲学では、神や悪魔、天使については直接言及しませんが、「目にみえないもの」によって思考する、と云う前提は共有しています。それを批判したのが、フーコーなどのポストモダンの思想家たちでした。彼らが批判していたのは、「神」や「悪魔」と云った宗教的な存在を排除したと述べている近代哲学は、本当に「真理」を述べているのかと云う問いかけでした。

 もっとも、現代思想の研究家である仲正昌樹さんは『〈宗教化〉する現代思想』の中で、「哲学や思想から形而上学を完全に排除するのは不可能ではないか」と述べています。2000年代の安富さんの著作の議論は、ポストモダンの思想家たちの議論とかぶる点が多々あります。要するに、西洋の学問の前提はキリスト教の神学由来の言葉を、脱宗教化して使用している、と。であるのなら、本書で提示しようとしているのは、親鸞の思想に基づいた「新しい形而上学」とも云えるかもしれません。

 本書は、親鸞の思想をヒントに近代的自我や主体性の解体を述べているとも云えます。ただし、個人そのものを解体しているのではなく、親鸞が述べていた「如来の本願は実は親鸞ただ一人を救うためだったのではないか」と云う言葉を引用しながら、「方便」に基づいた世界の認識を提示しています。確かに、本書の内容は頁数の割には、かなり抽象的ではありますが、かなり刺激的な内容となっています。

 もし本書の内容がわかりづらいと思いましたら、國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』と云う本を読むと、ある程度議論がスッキリとみえるかもしれません。国分さんは同書の中で、言語文法における「する」と「される」以外のどちらでもない、「中動態」と云うものこそ思考の中心に据えるべきではないかと述べています。同書では、主にヨーロッパの哲学者の議論がかなり参照されていますが、安富さんと佐野さんの対談で述べられていた時枝誠記の議論も参照されています。

 また、一応、歴史学を専攻していた私としては「私の世界史」と云う概念が大変興味深く感じました。「私」と云う存在を勘定に入れながら、歴史を記述していこうと云うのは、歴史学ではなおざりにしがちです。学生時代に読んでいた著作で、歴史学者の與那覇潤さんの『中国化する日本』と云うのがあるのですが、同書は歴史を個人の活躍ではなく、社会システムでみていこうと云うのは、安富さんの主張とかぶるのですが、與那覇さんの著作では「私」と云う概念はありません。実は、與那覇さんは大学院時代は安富さんと交流があたそうですし、講義録『日本人はなぜ存在するのか』では安富さんの『貨幣の複雑性』を引用しています。

 もっとも、現在は仲違いしているようなので、根本的な考え方が違うのかもしれません。


 私は安富さんと與那覇さんが仲違いしているのが不思議だったのですが、実は「形而上学」をはっきり述べているか、そうでないかと云う差なのかもしれません。安富さんが本多さんや佐野さんのような仏教者たちと交流を持ったのも、自分よりも他力や仏教と云った強い形而上の概念にくわしいからだと思います。



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