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2021年4月23日のうが金とれいわ一揆を視聴した感想



 先日、私はジャーナリストの烏賀陽弘道氏のYoutube番組「うが金」を視聴した。




 内容は非常に濃く、烏賀陽氏の話していた言葉を一日中考えざるおえなかった。本来なら、複数の人間が何時間にも分けて話すであろう話題をたった3時間半で、話してみせる烏賀陽氏の力量に驚いた。また、チャット欄の議論は凄まじく、考えさせられるものがあった。
 この記事では、2:03:56の後半から話されていた烏賀陽氏と一月万冊との関係についての話について、私なりに思ったことをしるしていく。断っておくと、私は以前書いた記事で、「一月万冊は信頼できるメデイア」としるしている。その想いは今でも変わらないし、一月万冊の清水有高氏や著者たちのおかげでこうして生きていられる、と思っている。 

 その上で、以下の文章をしるす。

うが金で話された内容


 烏賀陽氏は、番組内で、先月の末から一月万冊の清水有高氏と意見の対立が生じている、と述べている。

 主な原因は、一月万冊が先月の3月28日に昨年の東京都知事選に立候補した宇都宮健児氏を出演させたことである。


 
 同日の放送をTwitterの予告で知った烏賀陽氏は、放送の中止を要求した、と云う。

 理由は、「政治家にメデイアを貸すと云うことは、フェアネス原則に反する」からだ。

 「フェアネス」とは何か。

 烏賀陽氏の主著である『フェイクニュースの見分け方』では、次のように定義されている。


 元々「フェア」はキリスト教の神が人間を裁く(judge)ときの態度を指す。キリスト教文化では神は人間のすることを生まれてから死ぬまで全部、監視ビデオのように見ていることになっている。人間が死んだとき、天国に行くか地獄に行くか決める(=judge)。その判断には、神の言葉(聖書)に従った良い(right)行いも、そうでない悪い行いも、すべて考慮される。つまり神様が人間にするように「良い行いも悪い行いもすべてを考慮してジャッジする」態度が「フェア」と呼ばれる。(略)
 西欧キリスト教文化社会型の報道も、こうした「フェアネス」の思考文化を受け継いでいる。ゆえに西欧文化での報道は「フェアネス」をもっとも重要視している。(略)この「フェア」の概念をマスメディア上の情報に当てはめてみると「ポジティブな内容もネガティブな内容も両方が記述してある」意味になる。(130-132頁)


 同書では、「フェアネス」に則った報道を、次のように述べている。





・実在する人間を「完全な善人」または「完全な悪人」であるかのように見せる表現は、現実から離れている。
・フェアネス原則を守っているかどうかが、まともな報道か否かのリトマス試験紙になる。
・フェアであることは、真実に近づくための方法である。
・正反対の立場の記事、書籍に目を通すことが重要。
・たとえ間違った主張の本であっても、それが社会に共有され「なぜ誤ったのか」を社会が考えるプロセスこそが、社会全体の知を向上させる。
(178頁)


 もし、上記の「フェアネス原則」を重んじるのなら、「オリンピック開催を公約に掲げて立候補した宇都宮健児氏(注:放送内では、なぜか1975年の東京都知事選に立候補を表明するも断念した「宇都宮徳馬」と呼んでいる)だけを出演させることは、偏向報道である」と云うことなる。なぜなら、選挙に出て政党の看板を掲げることは、公金の支給を受けることを意味する。税金を支給されて政治活動を行う政治家あるいは落選した予備軍は等しく「フェア」に疑わなくてはならないからだ。

 烏賀陽氏は、上記の「フェアネス原則」に基づいて清水氏に3つの助言をすることになる。

 1つは、「フェアネス」を貫徹させるために、昨年の都知事選でオリンピック推薦を掲げた小池百合子氏も一月万冊に出演させる。他に立候補した人物も同様に、意見を云わせる。そうすれば、「オリンピック反対」を主張した宇都宮氏だけを出演させた「アン・フェア」なメデイアだと指弾されなくて済む。

 もう1つは、「フェアネス」をあえて放棄する。なぜなら、一月万冊は清水有高氏のメデイアである。つまり、清水氏が運営の決定権を握っている。「オリンピック反対」「反与党」と云う方針に基づいて運用するのは、清水氏の自由である。ただし、「反自民贔屓」が方針の他のメデイアとの差異化は断念する。

 最後に、やはり「フェアネス」を貫徹させるために、最初から政治家を出演させない。なぜなら、一度でも一人政治家をメデイアに出演させてしまったら、すべての政治家の意見を聞かなければならない。そんなことをしてはきりがない。だから、政治家は出演させないほうが「フェアネス」を楽に貫徹することができる。


 烏賀陽氏の上記の趣旨の助言に、清水氏は、次のように反論したと云う。(なお、以下の引用は、放送内での烏賀陽氏の発言の孫引き)





そんな「フェアネス」とかを守ったからと云って、社会のどこが変わったのだ。(2:27:01-06)


 烏賀陽氏は、世界中のメデイアは「フェアネス」は守っている、たとえ朝日新聞でも産経新聞でも守っている、当たり前のことだ、と云ったと述べている。しかし、清水氏は再度反論したと云う。





そんなものを守ったからと云って、この世の中の何が変わったのだ。(2:28:01-05) 

 

 つまり、烏賀陽氏と意見が一致しなかったことになる。 

 清水氏は、烏賀陽氏に、「佐藤章氏をなぜ推薦したのか」を尋ねたと云う。佐藤氏は『職業政治家・小沢一郎』と云う本を上梓しており、小沢一郎のシンパではないか、政治的に偏った人を推薦したのなら、「フェアネス」に違反しているのではないか。
 それに対し、烏賀陽氏は、清水氏に佐藤氏を推薦した時の発言を述べている。





この小沢一郎に関する本は、佐藤章は小沢一郎に肩入れしすぎだと思う。んで、そのあたり(筆者注:フェアネスに基づいているかについて)はバランスを欠いている、と。
だけど、清水さん、一回、あの、佐藤さんに会ってみて、その上で、判断してみてくれ、と。
んで、えーと、佐藤章は、朝日新聞の中では、極めて優秀なとくダネ記者で、僕もその、尊敬する先輩である、と。
んで、えーと、ただし、この小沢一郎の本は、俺は、あの、そう云う意味では、肩入れしすぎだと思う。そのことは含んで、判断してくれていいと思う、と。
別に、佐藤章がダメなら、あの、断ってもらってもいい、と。
(2:29:09-55)


 烏賀陽氏は、清水氏との認識の齟齬について述べている。

 また、烏賀陽氏は、清水氏に「安冨歩はどうなのだ」と訊かれたと云う。
 烏賀陽氏は、安冨氏を清水氏に推薦した理由を次のように述べている。





僕は、えー、安冨歩は選挙に出る前(筆者注:2019年の参議院選挙)から、一月万冊に出ているから、あの、判断は微妙だ、と思う。
んで、まあー、佐藤、あ、ごめんなさい、清水有高さんに安冨歩を紹介したのは、僕なのね。
あの、安冨君は、一回もお礼、云ったことないけど、ほんなんすよ。んで、僕が、えー、安冨歩君を、いいと思ったのは、東大話法、あの「立場主義」、あれと『原発事故と東大話法』と云う本があったでしょ、あの2冊が非常に優れていたからだよね。(筆者注:おそらく『原発危機と「東大話法」〜傍観者の論理・欺瞞の言葉〜』(明石書店、2012年)と『幻影からの脱出〜原発危機と東大話法を越えて〜』(明石書店、2012年)を指すと思われるが、『もう「東大話法」にはだまされない〜「立場主義」エリートの欺瞞を見抜く〜』(講談社、2012年)を述べていた可能性もある)
んで、彼はその2冊が極めて正直で、裏表のない、えー、やっぱり論考をしているので、僕は、こう云う嘘のない人は、あの、いいな、と思った。
(2:30:30-31:24)

 しかし、烏賀陽氏は、次のようにも答えている。




選挙に出てからの、安冨歩は、要注意だ、と思うと云った。それは、なぜかと云うと、あのー、もう、政治家予備軍なので、彼は。
あのー、まあ、東村山市長選挙に、選挙で、無所属で出るくらいなら、まあまあ、まあ、そんなこともあるかなあ、と。
思ったのですけれども、えーと、国会議員選挙に「れいわ」と云う政党の名前を背負って、出たら、それは、あれなんですよ、政治家予備軍なんですよ。
彼の、政治家予備軍になった人の言論と云うのは、政治的なゴールの達成のためにあるんですよ。
んでー、さっきも云いましたけれど、選挙に一回出たら、それは税金の支出を受けるんですよね、ね。
税金の支出を受ける人間、それはあれなんですよ、公人、"public figure"なんですよ。落選しようと、当選しようと、ね。
で、我々、記者は、我々、記者は、そう云う税金の執行を受ける人たち、例えば、税金で給料をもらっている官僚とか政治家とか、そう云う人たちはすべからく疑います。監視の対象だと思っています。
で、そう云う意味では、えー、れいわの選挙を出て以降の安冨歩さんは、えー、その"public figure"である、と。
もう1つは、えー、政党の、看板を背負って選挙に出たと云うことは、えー、その言論は、その政党が掲げた選挙公約の実現のためにある。
第一にある、と僕は思う。そらそうですよ。
だって、この日本の中で、ね、国民の代表として、国会に行こうとする以上に、その言葉、約束、えー、有権者と、俺はこれをこうしたいから、俺は選挙に出るんだ。だから、俺に票を入れてくれ、と云ったことの、約束以上の重い言論はない、と思う。
(2:32:11-34:28)


 なので、烏賀陽氏は、清水氏に現在の安冨氏を一月万冊に出演させ続けるのは、「政治的に偏っている」と指摘した云う。烏賀陽氏によれば、清水氏は怒った、と云う。

 その後も清水氏と烏賀陽氏の間での意見の対立が解消されず、紆余曲折を経て、3週間ほどコンタクトが取れなくなり、一月万冊への烏賀陽氏の出演はなくなったと云う。烏賀陽氏は、清水氏との対話を求めているが、膠着状態が続いていると云う。

 本記事執筆の2021年4月25日時点で、清水氏からのコメントはない。

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私の感想


 私は、昨年から一月万冊をみているただの視聴者で、烏賀陽氏の名前を知ったのも一月万冊からであった。私自身、メデイアの運営方法については知らないし、当事者間の話し合いで決着をつけていただきたいと願っている。
現時点で、清水氏からの見解も公開されていないので、判断は難しい点もある。
 その点を踏まえて、私なりの感想を述べる。


 烏賀陽氏が放送内で何度も言及していた「フェアネス原則」については、私は烏賀陽氏のほうが理があると思った。

 烏賀陽氏からの孫引きであるが、清水氏が述べていたと云う


そんな「フェアネス」とかを守ったからと云って、社会のどこが変わったのだ。


と云う言葉は、一見すると、一月万冊での清水氏らしい発想に聞こえるかもしれない。実際、放送内でのコメント欄でも評価する声が上がっていた。

 しかし、私は別のことを考えていた。


清水さんみたいな人でも、こう云う発想になっちゃうのか――。   


 私は、「フェアネス原則」を守らないで、言論を発信しているメデイアを知っている。

 それは、「保守論壇」である。

 「保守論壇」と聞いた時、現代の日本人の多くは何と感じるだろうか。
 私のnoteをフォローしたり、スキをしてくださる方で、「保守論壇」について詳しく知らない人が多いと思う。たぶん、何となくイメージするのは、安倍晋三前内閣をヨイショしたり、中国や韓国に敵対的な言説を振りまいたりする得体のしれない人たち。何か危ない右翼っぽい人たち。

 Twitterでは定期的に話題になるが、自民党の議員たちが日本国憲法から「国民主権」「基本的人権」「平和主義」と云った三原則をなくそうと主張している動画がある。この動画で、はじめて「保守的な言論」に触れた人たちはドン引きすると思う。

  
 平成時代は、政治的な無関心が加速し、投票率が低下しているのは周知の事実だ。ただ、政治についてよくわからない人でも、「与党が自民党と公明党で、野党が複数いて、対立している。自民党は保守を名乗っている」と云うことぐらいなら、何となくわかると思う。しかし、それ以上はわからない。

 私の推測だが、一月万冊を視聴している人たちの多くは、おそらくリベラルな傾向が強い人が多いと思う。さりとて、既存のリベラルな雑誌「週刊金曜日」や「世界」などでは満足できない。あるいは、既存のリベラルや左派勢力も信用できない。イデオロギー抜きで、事実を知りたい人が多いから、去年のチャンネルの登録者数も急激に伸びたのだと思う。少なくとも、自民党政権に好意的な人は少ないと思う。

 前置きは長くなったが、私が清水氏の発言を聞いて「保守論壇」のことを想起したのは、他でもない、高校・大学時代の私が「保守論壇」の言論に接し続けてきたからだ。その時の経験から云わせると、「保守論壇」には「フェアネス原則」はない。よって、「フェアネス」を欠いた言論をし続けると、「保守論壇」の二の舞を踏むことになる可能性が高い。

 おそらく、一月万冊の視聴者は、こう反論するかもしれない。

自民党は差別ばかりをするトンデモナイ奴らばかりじゃないか。日本をダメにしたのは自民党やそれを支えている官僚機構や電通とか、利権団体ではないか。だけど、一月万冊は社会の問題や弱者と向き合おうとしているじゃないか。そんな「保守論壇」みたいな自民党とかみたいな差別利権政権を支持してきた差別主義者の言論とは、違う。

 左様。私自身は、一月万冊は極めて「リベラル」なメデイアだと思っている。
 ここで云う「リベラル」とは立憲民主党や野党を支持していたり、アンチ自民と云う政治スタンスと云うよりも「他者に対する寛容を重視する態度」を指していると思っていただきたい。清水氏は「差別は問題だ」と常々、発言しており、差別的なコメントは削除していると宣言している。出演者の安冨氏や本間龍氏や今一生氏、佐藤章氏、平田悠貴氏、烏賀陽氏は現代日本の抱えている問題を厳しく指摘している。一月万冊が革新的なのは、「リベラル」なメデイアでありながら、発信力の高さがずば抜けて高いことだ。

 さらに、既存の「リベラル」なメデイアでは、一般的にアカデミズムの学者や作家が出演しがちなのに対し、元・博報堂の営業マンの本間氏やフリーライターで児童虐待について詳しい今氏や福島原発事故を一貫して取材し続ける烏賀陽氏と云った既存の「リベラル」なメデイアではあまり登場しにくい著者を出演させて長時間発言させることだ。また、Youtubeで検索するとわかるが、「リベラル」な言論人の話している動画を検索しようとすると、だいたい、市民団体が主催している講演会を収録している動画が多い。講演は決まった時間で話ができず、時間が足りなくなると、途中で省略しないといけなくなる。その点を清水氏と著者の対談形式に発信することで、著者の発言時間を確保し、細かい論点を丁寧に解説することが可能となっている。

 また、現在の「リベラル」な言論人の問題点であるが、「綺麗事ばかり云っている」と思われている点を払拭していることだ。実際の「リベラル」な言論人は「綺麗事」は云っていないのだが、いかんせん大学教授や文化人が目立つせいか、世間的には「綺麗事ばかり云っている」と思われている。その点を、清水氏と云う経営者が運営していることで、「お金」や「経営」と云った「リベラル」なメデイアが苦手とするジャンルが語れる人物がホストとしてコメントできるため、言論に幅を持たせることができる。

 他にも、一月万冊が他の「リベラル」なメデイアと異なり優れた点は複数存在する。

 しかし、その点を差し引いても、烏賀陽氏の指摘は傾聴に値するものがある。

 なぜなら、清水氏が烏賀陽氏に述べたと云う「社会を変えるため」に、「フェアネス原則」を放棄するのなら、2010年代初頭の保守論壇と同じこと道をたどる可能性があるからだ。それは、思想の中身云々の問題ではない。

 現代の与党・自民党の腐敗ぶりや保守系言論人の無責任な言動からは、想像がつかないと思うが、2010年初頭に、保守論壇が応援していた安倍晋三氏による「救国」がまことしやかに語られていた。つまり、安倍内閣によって日本が変わると云う雰囲気があったのだ。と云っても、保守論壇の言論に触れていなかった人には理解しづらいと思うが。


 昨年(筆者注:2012年)、前著『嘘だらけの日米近現代史』を書き上げたときとは景色が違って見えます。
 あのころは、長すぎるデフレ不況に日本人は希望を失い、中国や朝鮮に何か言われるたびに誤り続ける情けない国でした。
 ところが今や、日本は別の国になったこのような気がします。上がり続ける株価を背景にした安倍首相は、もはや敵なしの感があります。中国が何を言ってきても毅然とした態度ではね返し、年中行事と化した北朝鮮のミサイル打ち上げも断念させました。
 マスコミのネガティブキャンペーンなど蹴散らすかのように支持率は絶好調です。不況でまともに予算をかけられず、しかも規制でがんじがらめの大手メディアに真実がないことを、国民は気づき始めています。広告代理店はインターネットに最も力を入れて広告費をかけるようになりました。第二次安倍内閣は間違いなくネット時代の産物でしょう。
 そして「安倍救国内閣」の実現を信じて、私も微力ながらネットと書籍で自分の正しいと信じることを訴え続けました。
 「日本銀行は中国の手先だ」
 「日銀人事はすべてに優先する天王山だ」
 「白川(筆者注:白川方明日銀総裁)を討て!」(倉山満『嘘だらけの日中近現代史』、264-265頁)


 現在、この文章を読めば、多くの人は失笑を禁じえないと思う。見事なまでの提灯本だ、と。同書が刊行されたのは、2013年の6月。安倍内閣が成立してから、まだ1年もたたずに書かれている。同書の「はじめに」を読むと、著者が「フェアネス原則」をはじめから放棄しているのがわかる。


 十九世紀まで「世界史」などという野蛮な世界とほとんど無縁で暮らすことができた日本人には、ユーラシア大陸の激烈な生存競争は想像の外というしかありません。そのユーラシア大陸で最も生存競争が激しいのが中国です。(略)
 ある意味で、中国人というだけで尊敬したくなります。普通の日本人が中国に放り込まれたら、三日と生きていけないでしょう。つくづく日本人に生まれてよかった、中国人はなんとかわいそうな人たちだ、と思います。(略)
 本書が「歴史療法」というのは、「悪女から抜け出すには、そいつのスッピンを見ろ」ということにつきます。「恋は盲目」のダメ人間でも、厚化粧を落とした素顔を見て、過去の真実を知れば夢から覚めるものです。
 本書で中国という、腐れ縁の悪女から抜け出しましょう。(倉山、同書、10-11頁)


 同書の著者が「フェアネス原則」を放棄しているのは、「政治的なゴール」を設定しているからである。云い換えると、著者なりの「世直し」のために、言論を行っているからだ。そうなると、同書の著者の言論は「事実」を伝えると云うよりも「宣教」や「啓蒙」に近い。


 日本は七十年間、負けたふりを続けてきました。七十年もこんなことを続けていては、本気で負け犬根性が染みつきかねません。やるべきことは教育と軍事です。
 教育を立て直すことが国の根本です。そして教育は政府に任せることではありません。江戸時代の日本がそうであったように、国の御一新を担う人材は、民間でこそ教育すべきなのです。(略)
 日本は厄介な隣国を抱えています。中国は多くの邦人が在住していますし、何より北朝鮮拉致被害者を今、取り返さなくてどうするのでしょう。(倉山、同書、265-266頁)


 烏賀陽氏の主著『フェイクニュースの見分け方』を読み返すと、「フェアネス原則」に欠けた言論の問題が浮き彫りになる。


 現実はかくも矛盾し、ねじれている。血のにじむような努力を重ねた人間が敗れ去る。特に努力したわけでもない人間が成功する。誠実な人間が裏切られ、嘘つきが勝つ。巨万の富や権力を得る。犯罪者は逃れ、犠牲者の無念は報われない。大義もなく戦争が起こり、街が破壊され、人々が虐殺される。貧しい者はますます奪われ、富める者はますます豊かになる。
 ところが、そうした現実に倦んだ人々は、マスメディアに「現実と反対の、単純化あるいは理想化された物語」を求める。テレビやインターネットなどマスメディアのプラットフォームが同じだと、報道にもその感覚が無原則に持ち込まれる。(略)
より単純化した話や、善玉・悪玉が明確に色付けされたストーリーのほうが、より多数が理解し、受け入れやすい。こうした「現実の単純化」には「正義vs.悪」「英雄vs.敗者」「栄光・勝利vs.挫折」など「二項対立」の手法がよく使われる。映画、ドラマやマンガ、小説といったフィクションではありふれた手法である。政治・経済でのプロパガンダ(選挙、政策宣伝、広告など)でもこの手法は日常的に使われる。
 フィクションやプロパガンダの分野では、読者・視聴者がそう了解している限り、一向に構わない。しかし報道はフィクションでもプロパガンダでもない。フェアネス原則から逸脱すると「より現実に近い=(正確な)事実を伝える」という背骨を失い「報道」ではなくなる。フィクションやプロパガンダに近づく。(154-155頁)

 

  もう一つ、「原則」を破ると、別の危険性がある。それは、妥結点がなくなり、力での勝負になってしまうことだ。こう書くと抽象的で、よくわからないと思われるが、意見の違う他者の話を聞かなくなり、相手を憎むようになる、と思っていただきたい。
 こう書くと昨今云われている、「リベラルvs保守による社会の分断」を想起される方が多いかもしれない。しかし、保守論壇の言論を触れてきた身からすると、実は意外と身内同士での対立のほうが多い。

 先ほど、引用した倉山満氏は2013年に、安倍内閣が消費税増税を決定すると、既存の保守系言論人に対する不信感を吐露する。倉山氏は、消費税増税がアベノミクスの腰折れになると考えたからだ。


 櫻井よしこという、保守系論客であることを売りに講演ビジネスに勤しむタレントさんがいます。別に他人のビジネス自体を批判する気はありませんが、彼女のことを本気で国を愛し、素晴らしい知性の持ち主だと信じるのは困ります。(略)
 はっきり言いますが、櫻井氏が「保守」であるなら、私は保守でなくて結構。憲法改正と核武装を提言していれば銭儲けができるのだから、「保守」も楽なものです。(略)こういうのは本書で述べる「保守」ではなく、単なる愛国ビジネスです。櫻井氏がいかに「保守」的な発言をしていようが、言論人としてまがいものである以上、信じていたら騙されます。(倉山、『保守の心得』、90頁)

 
 同書では、2013年の消費税増税は、財務省による陰謀であり、メディアに工作を仕掛けていた、と述べている。果たして、数々のスキャンダルに見舞われながらも、歴代最長政権を築いた安倍内閣が、財務省にコントロールされたと云う言説にどれだけの人間が信憑性を持つか。ちなみに、同書では、財務省がどのような工作を行ったのか具体的な根拠を提示していない。


 「フェアネス」のような原則を放棄すると、言論は政治的な情勢に引っ張られがちになる。その言論が正しいものかと云う尺度がなくなってしまうので、最終的には「自分の意見に賛同するか、そうでないか」と云う基準になってしまう。


 そのような保守論壇の実態を暴露したのが古谷経衡氏の『愛国奴』(現在、小学館文庫で『愛国商売』と改題)である。同書は、あくまで小説と云う形式なので、事実を正確に述べているかと云うと、若干の疑問もある。ただ、筆者の古谷氏自身が保守論壇に身を置いていた人間であり、そこで語られていた言論については熟知している。同書を読むと、保守論壇がいかに「原理原則」が存在しない空間であるのかがわかる。だからこそ、意見の対立で、しょっちゅう分裂が生じる。

 今年、アメリカ大統領選挙で、バイデンが不正選挙を行って当選したことを認めるか、どうかで、保守言論人同士で対立があったが、おそらく、保守論壇に詳しくない人間からすると、不思議に思ったかもしれない。同じ「保守」を名乗っている人間同士で、対立するなんて、と。しかし、私からすると、「また同じように、揉めているのか」と思った。

 世の中を変えたいと思ったのは、平成の保守言論人も同様であった。


 平成に入ってすぐにバブルが崩壊し、「失われた十年」と、続く十五年に及ぶデフレ不況が訪れました。二十五年の不景気によって経済以上に日本人の心が冷えきってしまった。この悲しい現実を安倍首相ほどわかっていた政治家がいるでしょうか。
 再出馬する数ヶ月前の野党時代、銀座に牛丼屋ができていると聞くや「そこまでデフレは深刻化していたのか」と絶句し、その夜の会合で「とにかくデフレ脱却が急務だ」と訴えました。また、総理になって半年、求人雑誌の頁数が倍になったことを知り、派遣社員やフリーターにまでアベノミクスの恩恵が及び始めていることを心の底から喜ぶ。正しい経済学の知見を身につけているのみならず、弱い立場の人々にも気を配ることができる。なぜそのような総理大臣が、デフレを脱却していないのに、間違いなく景気を悪化させる増税を決断しなければならなかったのか。(倉山、『保守の心得』、12頁)


保守系の集会の憲法論など、四十年前でも一字一句入れ替えずに通じてしまうようなカビの生えた話ばかりです。それでいて飲み会になると、「最近の若者は国家観・愛国心がない」とおじさんたちがクダを巻いています。
 では、「あんたらの集会に来ることができないほど困窮している若者は、一人残らず愛国心がない非国民なのか?」と声を大にして言いたい。
 むしろ逆で、櫻井よしこ氏に代表される似非保守文化人の言動を胡散臭く思った、愛国心ある若者たちが、インターネットに集まっています。
 歴代総理大臣がひれ伏し、「法王」とまで恐れられていた白川方明日銀総裁に対し、安倍晋三首相がアベノミクスを掲げて戦いを挑んだとき、安倍首相にとって唯一の味方がネット世論でした。(倉山、同書、94頁)


 しかし、現実は変わらなかった。

 なぜそうなったのか。安倍内閣退陣後に刊行された倉山氏の著作を読むと、次のような文章がしるされている。


 メディアとは、道具に過ぎない。だから、新聞にもラジオにもインターネットにも善悪はない。それらを使う人の質がすべてなのである。
  これは一義的には発信者である言論人の責任だ。だが何もしなければ、悪貨は良貨を駆逐する。良き言論人を育てるのは、目の肥えた観客だ。
 この七年間、日本には二つの言論しかないかのようだった。一つは「反安倍」、もう一つは「反・反安倍」。前者はリベラル、後者は「保守」、時に「ネトウヨ」と呼ばれる。
 だが人間の評価に、ましてや政治家の評価に百点も零点もあるだろうか。基準が安倍晋三に全面的に反対するか賛成するかでは、あまりにも貧困な言論状況と言わざるを得ない。(略)
 いつまでも安倍晋三個人を軸に、右か左かの議論だけをしても仕方あるまい。
 左右の争いを、たまには上から観る視点も必要ではないだろうか。(倉山、『保守とネトウヨの近現代史』、216-217頁)


 

 同書の「おわりに」を読むと、過去の自分への自己否定とも取れるような文章をしるしている。


 令和二年八月二十四日に安倍内閣は、佐藤栄作の最長不在記録を超えて、憲政史上最長の政権となった。その日を境に新聞やテレビは「何一つレガシーが無い」などと嘲笑し、ほどなくして安倍内閣は退陣に至る。歴史家は安倍内閣を長いだけで何もできなかった政権と断罪するだろう。そして、そんな安倍晋三にぶら下がっただけの「保守」「ネトウヨ」など、日本の歴史から忘れ去られるだろう。そもそも活動を知られているかすらも、疑問だが。(略)
 果たして、「保守」「ネトウヨ」を語ることに、何の公益性があるのか。確かに、本書のどのページ、どの部分を取り出しても、公益性は微塵も見いだせない。しかし、それらすべてをつなげると、全体には公益性が発生する。つまり、「保守」「ネトウヨ」について語る行為自体に公益性がないのだ、と理解できよう。(倉山、同書、218-220頁)

 

 一月万冊が今後どのようなメディアに発展するのか。
 烏賀陽氏との関係も含めて、これからも、注視していきたい。

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れいわ一揆を視聴した感想


 本来なら、この記事は4月23日のうが金の放送だけについて言及するつもりだった。
 しかし、烏賀陽氏が同放送の中で、2019年の参院選に立候補した安冨歩氏は「公人」で、「一月万冊に出演させ続けるのは偏っている」と述べていた。

 私は2019年の参院選のれいわ新選組の演説は、直接は仙台駅で行われた山本太郎氏の演説しか聴いていない。他は、インターネットのYoutubeの動画のみだった。私自身、れいわ新選組がどのように選挙活動を行っていたのか、全体像は知らなかった。当然、安冨氏が具体的に何を語っていたのか、あまり知らなかった。

 なるほど。確かに、烏賀陽氏の指摘のように、安冨氏は「政治家予備軍」であり、「公人」だ。その言論は「政治的なゴールの達成にある」と思う。

 では、安冨氏やれいわ新選組が何を訴えたのか。確認を取る必要があると思った。何が「偏っているのか」を吟味しない限り、ただ「政治的に偏っている」と述べても意味がないと思った。


 そこで、原一男監督が撮影した「れいわ一揆」を視聴することにした。そもそも原一男監督の映画に出演するために、安冨氏は参院選に出馬していると公言しているくらいだ。そして、4月27日にYoutubeレンタルを利用した。4時間の長い作品のせいで、翌日まで視聴するのがかかった。



 視聴後の感想をしるそうと思ったが、何としるそうか、迷った。

 確かに、れいわ新選組の候補者の演説が中心に写っている。しかし、単純に、れいわ新選組のPR映画とも云い切れなかった。あまりにも映像の内容が膨大過ぎたからだ。


 悩んだ末に、私がおぼろげながら思ったのは、以下の3つだ。

 1つは、テレビや新聞、インターネットでは、実際の選挙を写しきれないことがよくわかった。別に、思想が偏向しているからではなく、あまりにも膨大な量の人々の声や熱気を、決められた時間の映像や記事では伝え切れないからだ。同作が4時間と云う、私が今まで視聴した映画の中でも最長の時間なのは、仕方がないと思った。同作では、候補者たちの周りに集まっている人たちも撮っている。
 自民党の候補者にヤジを飛ばす聴衆、れいわ新選組から立候補した木村英子氏と舩後靖彦氏を応援するために駆けつけた身体障害を持つ支持者たち、れいわの候補者たちの演説を聴くために集まった人たちで埋まる駅前、安冨氏が連れていた馬や音楽のパフォーマンスに興味を持ち集まる人々、逆に安冨氏に敵意を向ける人々、安冨氏が涙を流すと共に涙を流す聴衆。
 おそらく、どのメディアでも写すことことができない人たちの姿を同作は克明にしるしている。

 もう1つは、安冨歩と云う人間はつくずく怖ろしい人だと思った。何がどう怖ろしいかと云うと、本気で世の中を変えたいと考え、そのためには手段は選ばない人間だと云うことを写しているからだ。安冨氏ほどの地位に着いたなら、わざわざ選挙に立候補する理由はない。東大教授と云う肩書を持ち、学問的な実績もある。もし言論人として、政治に参与するのなら、自分は選挙に立候補せず、政治家のブレーンとして活躍した方がよい。なぜなら、あくまで政治家に意見を云うだけなので、責任は直接取らなくて済む。実際、右左を問わず、政治家のブレーンとなっている学者や言論人は多数存在する。だが、選挙に立候補すれば、当然、言論人であるよりも政治家としてみなされる。発言は常に、政治的な意図がないか、みなされる。そう云うリスクを犯してまで、選挙に立候補したのは、安冨氏が本気で世の中を変えたいと考えており、そのための手段として選挙と云うメディアを活用したことになる。
 だからこそ、安冨氏の周りに集まってくる人たちは、かなり特異な人たちばかりだった。「特異」と云うのは、普段政治の場に現れないような人たちのことだ。普通、「政治」について語るのなら、同じような傾向の人たちで集まりがちになるし、事実、組織票を取ることで、安倍政権は長期政権を築いてきた。だから、リベラル言論人は浮動票を取るべきだと、力説してきた。
 しかし、投票率が一貫して低下しているのは、周知の事実だ。私が住んでいる仙台市が2019年に行った市議会議会選挙の投票率は「36.07%」だ。全体の半分どころか、6割以上の人たちが投票をしていないことになる。ちなみに、平成時代にはじめて行われた1991年の選挙では、「60.06%」の投票率だった。最近の例を挙げると、河合夫妻逮捕のために議席が空いた広島選挙の得票率は「33.61%」だ。NHKは過去最低と報じている。



 平成時代は、多くの知識人が、投票に行かない人間は自ら権利を放棄していると批判してきた。あるいは、日本の民主主義の未成熟さを嘆いたりした。

 しかし、安冨氏の戦略は別であった。

 安冨氏は一貫して、選挙では政治が変わらない、政治は選挙ではなく、一人ひとりの生活の中にある、しかし政治に関心がないと云うのも政治的な行為である、と選挙に立候補しながら訴えている。
 代わりに、安冨氏は馬や楽隊を引き連れ、聴衆と共に音楽を奏でたり、涙を流したりした。確かに、組織票や大勢の人間に訴えることを選挙とみなすのなら、安冨氏の行為は無意味にみえるかもしれない。だが、安冨氏は一貫して支持者を集めるために、練りに練られたものだとわかる。安冨氏は、あえて人が入っていくような隙間を作っているのだ。

 仮に、あなたが政治に関心があまりない人間だったとする。選挙カーで大声で自分の名前を連呼するだけだったり、作り笑いをしながら手を振り、周りは警備員でガードされている候補者と、馬や楽隊を引き連れながら、「選挙なんて、意味ねーよ」と云いながら、あなたと触れ合い、隙間すきまで意味のある演説を行う候補者、どちらに親近感を持つだろうか。仮に、投票に行かなくても、どちらの候補者の言葉が記憶に残るだろうか。

 最後に、同作は決して面白いと云う言葉で、済ましてくれないことだ。同作が面白くないわけではない。原監督はあちこちの上映会で、面白い映画を撮ったと述べている。確かに、面白い。しかし、原監督が述べている「面白い」とは、世間一般の「面白い」とは次元が違う。同作は、単なる消費するための映画ではない。むしろ、視聴する人間一人ひとりを写していると云えるかもしれない。無論、「つまらない」「安冨氏の自己宣伝映画」「何が云いたいのかわからない」と思う人も一定数いるかもしれない。
 だが、日本は民主主義の国である。民主主義の原則では一人一票を持ち、誰でも有権者として政治に意見を述べることができる。もう「建前」だと感じる人が多数だと思うが、少なくとも戦後の日本はそのように運営されてきた。同作では、改めて民主主義についての各人の考えが問われる内容となっている。れいわ新選組に親近感を抱いたり、逆に反発を抱くのは自由である。しかし、最終的に政治を決めるのは、一人ひとりの人間だ。


 原監督は、2020年9月19日に公開されたYoutubeチャンネル・活弁シネマ倶楽部のインタビューの中で、次のようなことを述べている。



あのー、ツイートにですね、あの、「山本太郎に騙された」と云うツイートがあって、3つ4つ同じようなツイートが来たのですよ。
その時に、まあ、あの、こう云う風に、自分は騙された被害者として、えー、捉えちゃいけないんじゃないの、って云う風に思い直したんです、私は。
だから、あのー、「騙された」と云う風にみるんじゃなくて、あの一年前の熱狂を記録しているわけですから、熱狂の中に、あなたも居た。
私も居たよ。それを信じたんじゃん。信じたのは、まさに「あなた自身が信じたんじゃないの?」って。
それを、騙されたと云う形でね、あの時の熱狂を否定するなんて、やっぱり生き方としてはつまらないんじゃないの、と思い直したんです。
今だから、私たちは、あの映画の作り手としては、一年前に記録した、その意味を一人ひとりが、やっぱり考えるために、この映画はあるんだから、あのー、そう云う意味で、あのー、ノスタルジックにみるんじゃなくて、まさに、一年前のスタート、と云う感覚で、「あなたのれいわ一揆を」「私のれいわ一揆を」と云う観点で、今まさに価値がある、みるべき映画だよ、と云う風に、あのー、売っていこうと云うと、あのー、今はそんな風に考えているのですよね。
いや、それは本当に、単にテクニックで云ってるんじゃなくて、あのー、やっぱり、ツイッターの中で、えー、「一年前のあれは、一年後の今、もう終わった」と書いている人がいたんですよ。
だから、「え、もう終わった」って云う風に、あなたは思うんですか。
じゃ、一年前に、あの時、実は、何も始まっていなかったんじゃないか、と云う風に私は、返したんですよ。
つまり、一年前で、本当は一歩一歩始まるはずだったものが、実は始まってなかったじゃん。内紛が表に出ちゃっただけじゃん。
私たち自身が一年前の、あの時から、何をどう動いてきたのって、あんた、云いたいの、って。これからじゃん、動くのは、って。
と云う風に、なんて云うか、ほんとにそう云う気持ちになってるんですよね。
これからがスタート、”Restart”と云うじゃないですか。「再出発」って。
(1:28:47-31:11)


 同作のプロデューサーである島野千尋氏も、次のような発言をしている。



別にはっきり云って、山本太郎さんじゃなくても、自分で一揆を起こさないといけないんですよね、政治に関しては。
うーん、そこに気づいてもらって、山本太郎さんに至らないところがあるんだったら、自分がそこを補って、違う動きをすればいいし、だから、「れいわ一揆」は「れいわ新選組の一揆」ではないわけですよね。
(1:41:40-42:01)



 私には、二人の言葉が、前述した一月万冊の問題とも被るように思われた。清水氏もこれまでとは、異なる新しいメディア運営を行い、一定の成果を挙げた。しかし、いざトラブルが生じると、急に「もう一月万冊は終わった」と云う声が上がり、清水有高氏の人格を否定するような意見まで出た。はっきり云って、まだ「出発」したばかりである。
 私もあまり人のことは云えないが、何かよくできる人が現れると、ついついその人に任せがちになる。当然、その人には負担がのしかかり、様々なトラブルが生じる。すると、今まで賛同していた人たちが、あっと云う間に、手を引いたり、非難の声を上げる。それは、政治だろうが、メディアだろうが、変わらないのではないだろうか。山本太郎氏だろうが、清水氏だろうが、私たちは彼らだけに頼ってはいけない。彼らに足りない部分があるのなら、それを一人ひとりができる範囲で行わなくてはならない。

 そんな時代を生きているのだな、と感じた。

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追記:2021年5月3日の烏賀陽氏のツイートでは、清水氏との面談があったことが述べられている。

最近、熱いですね。