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〈書評〉林總『不安な時代の家計管理』と安冨歩『複雑さを生きる』(一月万冊版)


書名:『不安な時代の家計管理』

著者:林總

公認会計士、税理士、明治大学院特任教授(管理会計)。外資系会計事務所、監査法人勤務を経て独立。現在、経営コンサルティング、執筆、講演活動を行っている。
『餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』(ダイヤモンド社)、『ドラッカーと会計の話をしよう』(中経出版)、『正しい家計管理』(WAVE出版)などの著作がヒット。
「支出は価値観のあらわれ」であり、家計管理は「満足度の高い人生」のためにおこなうもの。「節約」や「貯金」をやみくもに推奨せず、自らの価値観に向き合う家計管理法が読者の信頼を得ている。(本書カバー記載)   

あらすじ

 不安は「先が見えないこと」から生まれます。未来が不確実で、いま自分が何をすべきかがわからないから、不安が募るのです。(略)
 しかし、実はお金(生活費・事業費)の目処が立てば、多くの場合不安は解消されます。
 お金の余裕=心の余裕。
 何より、お金があれば考える余裕が生まれます。
 だから、いのいちばんに家計をマネジメントしましょう。
 落ち着いて、知的に、行動するのです。(はじめに、5頁) 

 本書は、2020年に緊急出版された家計管理についての本である。
 2020年は新型コロナの流行に伴い、経済的な打撃を受けた人が多かったと思う。仕事がなくなり、解雇され、就職先がなく、経済的に苦しい人が増えた。なかには、自ら命を断つ人もいた。
 著者は以下の読者を想定し、本書を上梓したと云う。

急に収入が減った人
先行きの収入不安を抱えている人(はじめに、4頁)

 まさに緊急事態に出版された書籍と云える。
 本書で、著者が強調しているのは、「現状を正しくマネジメント」するために、「正しい数字を机の上に乗せ、目に見える状態」することとしての「家計管理」である。「家計管理」を正確に行うことで、「次の行動」がみえてくると云うわけだ。

 本書の前半では、直近3ヶ月を生き延びるための家計管理術について叙述している。その際の肝となるのは、「財産目録」と「予算・収支ノート」の作成である。なお、「予算・収支表」は本書を刊行したすみれ書房ホームページからダウンロードができる。
 「3ヶ月」としているのは、危機が去るのに、3ヶ月は十分な時間であると歴史が証明しているからだと云う。

 そして、最終章では、「マネープレッシャーのない暮らし」について言及している。「マネープレッシャー」とは「いつも日々の支払いに追われ、お金の不安を抱えていること」(128頁)を指す。「マネープレッシャー」をなくすには、支出を減らすか、収入を増やすしかない。前章までは、あくまで緊急事態の策としての支出管理であるので、長期的にみた場合、収入を増やしていく必要がある。同章では、そのためのヒントを提示している。

 本書を著者自身は、次のように要約している。

・目をそらさず、「現実」を見ること
・現実に即して、「自分の頭で」考えること
 そして、
・決して嘘をつかず、誠実な姿勢を貫くこと(おわりに、153頁)

本書は、生きるための家計管理について教えてくれる。

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感想

 本書を手に取った時、私は大変金銭的にも精神的にも苦しかった。今でも、安定した収入がなく、貯金もわずかしかないが、本書を手に取った時と比べて圧倒的に心理的な余裕がある。少なくとも、むやみやたらにATMに駆け込み、現金を引き出すことはしなくなった。

 そもそも本書を手にしたきっかけは、Youtube番組の一月万冊で、簿記会計の重要性を説いている動画を視聴したことである。この動画では、ホストの清水有高氏が安冨歩氏と今一生氏と共に、簿記会計の重要性を語り、最終的に、安冨氏の簿記会計有料動画の販売を行っている。
 当時の私は、当有料動画を払うだけの金銭的な余裕はなく、仕方がないから近所の文房具屋で家計簿を購入した。しかし、買ってみて気づいたことであるが、記載が上手くいかない。計算が合わないことがしょっちゅうで、何度も書き直すことが多々あった。
 扉の方に、「この家計簿の使い方」と云う表が大ざっぱに記載されているだけで、とにかくわかりづらかった。
 仕方がないので、本屋に行って家計簿の付け方についての書籍を探した。しかし、大抵はただやみくもに「貯金ができる!」と云うだけで実質百均や文房具店で販売されている家計簿とたいして変わらない本や「◯◯さんの家計簿」と云うようなよくわからない人の顔写真が全面に出た、けばけばしい表紙の家計簿ばかりが並んでおり、辟易した。

 私は、一月万冊の動画で述べられていたような体系的な内容の本を探していた。そこで、本書と出会った。

 手にとってみると、家計簿そのものではなく、家計管理術について解説している本だとわかった。文章もしっかりとしており、他の家計簿本のように、文章がほとんどなく、変なポップ付きの家計簿も収録されていなかったので、購入することにした。

 結論から云うと、本書のおかげでなんとか生き延びることができた。

 当時の私は、とある就労支援施設に通っていた。仙台の郊外に住んでいる私は、市営バスを利用していた。その施設のスタッフは私の自己肯定感を上げるために、とにかく私を褒めてくれた。しかし、私は面接に落ち続け、職が得らず、安定した収入がなく、現金は減り続ける一方だった。とうとう、体調を崩し、予定していた塾講師の面接を断念することした。
 本書を読んで改めて気づいたのは、私自身、支出・財産管理が全くできていなかったことである。一応、学生時代には、マネーフォワードのアプリを利用していたが、あくまで、使ったお金しか入力していなかった。

 本書を読んで、はじめて家計簿の全体像がみえた。

 そんなことを通っていた就労支援施設のスタッフに語ったところ、むこうはなぜか沈黙した。ZOOMでの面談で、むこうはマスクをしていたから、口元はみえなかったが、「うーん、スゴいね」みたいな感じの表情だった。
 なんだよ、この人たちは。最初に会った時に、教えてくれれば、余計な支出もせずに、体調も崩さずに、済んだのに、と猛烈な怒りがこみ上げた。
 上記に引用した一月万冊の動画では、学歴差別についても語っていた。もちろん、学生時代の私もぼんやりとは知っていたし、関連する書籍は何冊か読んでいた。しかし、どこかより詳しく知ることを避けていた節もあったし、自分の就活にどう云う影響を及ぼすのかも考察しなかった。
 私が通っていた就労支援は、自己分析とか面接の作法とか、エントリーシートの書き方は教えてくれた。しかし、家計簿や簿記会計の重要性も日本の学歴差別の実態も教えてはくれなかった。
 代わりに、「あなたはスゴい人」とか「いいところがいっぱいある」とか云って、やたらに褒めちぎってくれた。もともと友人が少なく、人と関わるのが苦手だった私はその就労支援施設が居場所となっていた。知り合いともなかなか会えず、人との会話にも飢えていた。

 しかし、通い続けた結果、お金がなくなり、体調を崩した。

 私は、怒った。なんだ、結局、金と時間の無駄だったじゃないか。
 それ以降、その就労支援施設に通わなくなった。冬に近づいて、感染が広がりはじめたし、バス代や飲食代が無駄だと判断したからだ。本書に書いてあるとおりに、支出を減らした。
 ちょうど、同時にはじめていたメルカリの収入が入ってきたので、なんとか家計は黒字となった。そして、少しずつだが、考える余裕が生まれてきた。自分の家計を知ると、余計な出費はしなくなるし、有益な出費がどこなのかもわかってくる。
 不思議なのは、本書に書いてあることは、足し算引き算の世界で、特に難しい理論に基づいているわけでもない。1~2時間もあれば、だいたい説明はつく。計算が難しければ、電卓を使えばいい。なのに、なんで学校や就労支援施設は教えてくれないのか。代わりに、自己分析とか資格とかは自己PR、SPI対策は熱心に教えるのか。家計が成り立たなくては、生活がままならない。生活がままならなければ、就活どころか体を動かすことすら困難になのに。
 私はそれ以降、その就労支援施設を信頼しなくなった。足は運ばなくなり、むこうが月一でかけてくる電話に10分ぐらいしか応対しなくなった。施設のスタッフは、嘘は教えていないが、事実も教えていないと判断したからだ。

 代わりに、一月万冊の動画をほぼ毎日視聴し続けることにした。Youtubeで動画は無料配信しているし、就労支援施設よりもよっぽど良心的に事実を提示していると思ったからだ。
 本書と一月万冊のおかげで、じょじょに体調も回復してきた。命拾いとはこのことか。現在、宮城県では感染が再拡大し、県で独自の緊急事態宣言が発令し、予断を許さない状況は続いているが、私自身は去年のような切迫感はなくなった。本書のタイトルにある「不安」の実態がみえてきたからだ。

 もし、お金がなくて困っている人は家計簿と財産目録を作ることを勧める。支出と収入、手持ちの財産はいくらぐらいなのかを把握しないと「次の行動」に移せない。その時、本書はよい手引書となる。

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書名:『複雑さを生きる』(一月万冊版)

著者:安冨歩

安富歩さんは京都大学経済学部卒業後、株式会社住友銀行に勤務し、バブルを発生させる仕事に従事していました。しかし、そこで優秀なはずの人々が異常な活動に命がけで没頭する状況に耐えられず二年半で退社し、京都大学大学院経済学研究科修士課程に進学し、修士号取得後に京都大学人文科学研究所助手。その後、ロンドン大学の森嶋通夫教授の招きで、同大学の政治経済学校(LSE)のサントリー=トヨタ経済学・関係分野研究所(STICARD)の滞在研究員となる。1997年に博士号を取得し、学位論文『「満洲国」の金融』(創文社)で第四十回日本経済新聞経済図書文化賞を受賞。名古屋大学情報文化学部助教授、東京大学大学院総合文化研究科助教授、情報学環/学際情報学府助教授を経て、東京大学東洋文化研究所教授という経歴と肩書きを持たれています。(一月万冊動画説明欄)

あらすじ

 われわれはものごとを細切れにしてしまうことに慣れきっている。細切れにしたそれぞれの部分を理解したり解決したりすれば、もとの全体をうまく扱うことができるものと考えがちである。しかし、実際のところそのようなやり方がうまくいくことはめったにない。大抵の場合、区々たるものごとだけではなく、その結び合いが問題だからである。(はじめに、Ⅴ)

 本書は、2006年に岩波書店から刊行された『複雑さを生きる』を、Youtube番組・一月万冊のホストで、株式会社ビ・ハイア社長の清水有高氏が版権を買い取り、2020年に復刊したものである。

 本書は、ありとあらゆる点で破天荒だ。

 まず、書籍の購入する際は、一月万冊と直接コンタクトを取らねばならず、書店やAmazon、楽天などのネットストアでも購入ができない。
 次に、支払いが現金での口座振り込みのみと云う点だ。クレジットカードや電子決済は受け付けていない。
 さらに、値段は2020年春頃に販売された時は、3万円と高額な値段だった。その後、値段は高騰し、現在は3万5千円で販売されている。
 そして、本書の購入特典として、著者の安冨歩氏と清水氏の10時間近くの解説動画が付いている。

 そのあまりの奇抜な販売方法から、ネット上では、清水氏の販売手法を疑問視する声が上がり、一部、清水氏への誹謗中傷にまで発展した。また、3万以上の破格の値段から、一月万冊のコメント欄には、本書の値下げを要求するコメントが投稿された。しかし清水氏は、断固として拒否している。

 では、本書に一体、どのようなことがしるされているのか。
 なぜ、上記のような破天荒とも云える販売手法なのか。

 それは、本書そのものが破天荒な内容だから、と云える。
 破天荒な本だから、売り方も破天荒になる、と云うのが私の理解だ。

 本書は、著者である安冨氏の主著であり、「生きる」と云う、その後の著作や思想の核になる考えが提示されている。本書のタイトルにある「複雑さ」とは、私たちが生きている、この世界を指している。そんな本書の要約を安冨氏自身は、次のように述べている。

 われわれ人間ひとりひとりの心身には、信じがたいくらいに高い計算能力がそなわっており、その力を活用しなければ、複雑な世界を生きることはできない。その創造的な力の作動を恐れ、外的な規範にとらわれ、直接的な目標達成のために頑張ることは、事態を悪化させるだけである。ものごとに取り組む場合には、その置かれた状況を視野に入れ、学習能力を活用し、間接的で動的な働きかけを行わねばならない。そのために必要な暗黙の力があなたには必ずそなわっている。(はじめに、ⅺ)

 本書の「序章」では、宮沢賢治の詩「春と修羅 序」を引用し、「わたくしといふ現象」を複雑系科学の用語で説明してみせる。
 第1章では、「知るということ」について考察されている。一見すると哲学的な議論のようにも思われるが、同章でも複雑系科学の研究が参照される。「知る」と云う何気ないことを科学的に証明しようとするのは非常に難しいことであることがわかる。
 第2章では、「コミュニケーション」について議論されている。「わたくし」と「あなた」と云う、本来全く異なる他者がわかり合ったフリが「コミュニケーション」の本質であるとし、「コミュニケーション」こそが社会を形作っていると看破する一方で、他者を利用しようと悪用するのが「ハラスメント」であると分析する。「コミュニケーション」は常に、「ハラスメント」に転化する危険性がはらんでいると云う。
 第3章では、前章までの議論を発展させて、本書の主題である「生きること」について考察していく。その際、「計画制御」の困難さについて指摘している。「計画制御」とは、「ものごとを事前に良く調査し、それを元に計画を立案し、十分に吟味し、その上で実行し、成果を評価する」思考の枠組みで、短く云い変えれば「調査・計画・実行・評価」となる(109頁)。代わりに、「やわらかな制御」を提案する。
 第4章では、前章までの比較的抽象的な議論から軍事史へと議論が移行する。前章で議論された「やわらかな制御」を軍事に当てはめたことになる。孫子の兵法やイギリスの軍事思想家・リデル・ハートの議論を参照しながら、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの思想史まで議論していく。なぜ、第一次世界後に「ファシズム」が隆盛したのかについて考察している。
 第5章では、著者の本業である経済学の基礎概念である「市場」について叙述している。経済学を含め現代の社会科学は「市場と共同体は対立する」「市場が共同体を破壊したことで、近代個人が生まれた」と云うテーゼで社会を分析しているが、それは誤りだと指摘している。その際、著者がフィールドワークを行った中国のとある村の実態が参照されている。

 上記の通り、本書は、1つの章で1冊の本が書けるようなテーマを1冊の本に凝縮しているとも云える。下手をすると、1つの節で、1冊の本が書けるとも云える。ちなみに、本書の全文で222頁ほどだが、岩波書店で刊行されている学術書と比べてみても特段に分厚くない。しかし、内容は異常に濃く、駆け足だ。
 ある意味では、特典動画がなければ、よくわからない箇所も多々ある。もっとも、著者である安冨氏らしい内容と云えるかもしれない。


 本書は、おそらく歴史に残る1冊となるであろう。


感想

 私が本書を購入できたのは、前述した林總氏『不安な時代の家計管理』のおかげと云える。同書の通りに、支出管理を行えたからこそ、購入できたと云える。


 本書を読んで、個人的に衝撃的だったのは、第4章と第5章だった。
 私は、大学時代に歴史学を専攻し、近代史の論文を執筆していたが、もし本書を手にしていたら、執筆内容は大幅に変わっていたと思う。また、当時傾倒していた保守思想についても考えを改めていたと思うし、就活についてもかなり違ったものとなっていたと思う。
 本書で、安冨氏が強調しているのは、「計画制御の困難」についてである。「計画制御」は、近代社会のありとあらゆる場所に浸透している考えで、意識していないと、この考えに足をすくわれてしまう。
 私が通っていた就労支援施設はこの発想で、利用者の就労支援を行っていた。「一生懸命、自己分析を行って、自分のやりたいことをみつけよう!」「自分のいいところをみつけて、自己PRをしよう!」。

 われわれはものごとを細切れにしてしまうことに慣れきっている。細切れにしたそれぞれの部分を理解したり解決したりすれば、もとの全体をうまく扱うことができるものと考えがちである。しかし、実際のところそのようなやり方がうまくいくことはめったにない。大抵の場合、区々たるものごとだけではなく、その結び合いが問題だからである。(はじめに、Ⅴ)

 はっきり云って、「自己PR」とか「自己分析」は無駄だった。なぜなら、「ものごとを細切れ」にすることだからだ。今振り返ると、「複雑な人間」の一側面だけを切り取っただけの安易な支援だったと思う。もっとも、その就労支援施設だけではなく、世の中のありとあらゆる組織がこの思考方法に則って活動している。「履歴書」はその最たるものと思う。就活で成功する鍵は間違いなく、その人の学歴だ。履歴書の書き方は正直決定要因とはならなし、「志望動機」もほとんど意味がない。一月万冊で、清水氏は「日本は学歴差別社会で、中卒・高卒・大卒、大手企業と中小企業では生涯賃金に明確な差がある」と指摘した動画を挙げている。清水氏は自身の経験も交えて語っているため、非常に説得力がある内容となっている。
 「自己分析」や「自己PR」と云うのは一種の自己啓発で、それに関する研究書も刊行されている。残念ながら、その思考は本書で批判されている「計画制御」の枠組みである。そう云えば、就労支援施設には、自己啓発本がやたら置いてあったことを記憶している。施設のスタッフの云っていたことも時々何を云っているのか、よくわからないことが多々あった。今思えば、自己啓発の発想で云っていたのだと思う。ちなみに清水氏は、他の動画で自己啓発について語っている。自己啓発的な発想のキャリア教育は清水氏の述べていることの亜流だと云うのがよくわかった。
 ちなみに、私も前記の就労支援施設が主催していた無料のセミナーに2回行ったことがある。よくわからないノートや資料を渡されたことが記憶されている。確かに、セミナーに行ってよくわからないノートに記述したり、講師と質疑応答している時は、なんとなく充実感はある。しかし、それ以上の効果はない。なぜなら、限られた時間しかなかったし、私を含め、参加者は就活が上手くいっていない人であったが、ひとりひとりの事情を聞かず、講師が一方的に話しているだけなので、当たり障りない内容しかしゃべれず、実用性が極めて乏しかった。

 たとえば100個の部品からなる機械をバラバラにするのは簡単であるが、それを正常に機能するように組み立てるのは難しい。部品の正しい組み合わせが一つしかないのに、可能な組み合わせが無限と言いたくなるほど沢山あるのがその基本的な理由である。(略)
 命を持たない機械ですらそうなのであるから、生物・人間・社会・生態系・地球環境などといったものを相手にする場合はなおさらである。こういったものごとを細切れにしたり動きを止めたりすれば、命を失ってしまう。(はじめに、ⅴ-ⅵ)

 本書を読むと、ものごとをメタにみる視点の重要性を教えてくれる。ものごとをメタな視点でみないと、行動が上手くいかない。私はそのせいで、お金と時間を無駄にした。
 

 話を本書の感想に戻したい。

 第4章と第5章が衝撃的だったのは、私が学生時代に傾倒していた保守思想の問題点が指摘されているからである。
 2010年代の言論界に詳しくない読者にはよくわからないと思うが、10年代は長期政権を築いた安倍政権が「保守」を名乗っていたので、「保守思想」が大変隆盛した。あるいは、安倍政権に反対していたリベラルの側でも「安倍政権の保守観がおかしい」と批判する際、「本当の保守思想はこれだ」と述べる際、エドマンド・バークやオルテガ、ハンナ・アーレントの著作がよく引用された。あるいは、彼らの議論を参考にした上で、自分なりの保守思想が語られた。現在考えると、大変奇妙なことだが、安倍政権を擁護する人たちも批判する人たちも同じ思想家の名前を出しながら、相手を批判していたことだ。
 当時の雰囲気がよくわからない読者のために、10年代に活躍した論客の著作を引用しておく。

 滅亡状態にある日本を自らの手で正常な状態に戻す。それこそが「保守」の目指すべき道です。「保守」はもともと、フランス革命において「理性があれば何でもできる」といった狂った革命派に対して、「ちょっと落ち着けよ」というスタンスから生まれたアンチテーゼでした。革命前は、ただ、そこに「伝統」があるだけですから、わざわざ思想にする必要がありません。(略)
 伝統とは何かというと、要するに「常識」の積み重ねです。もちろん、常識も伝統も絶対ではありません。(略)
 私の立場は、「ヨーロッパの理論を日本に当てはめよう保守」とは違います。
 我が国には革命の代わりに敗戦というものがあり、外国に占領され、現在に至っています。確かに国は残ったが、幕末維新の志士や特攻隊の青年たちが命をかけた日本を、彼らが思い念じたように保ち守っているのか。誰かの奴隷であっても、生きてさえいれば「滅亡」ではないのか。そういった観点から「保守」について考えたい。(倉山満『保守の心得』、23-25頁)
 私は「リベラル保守(liberal conservative)」という立場が重要だと考えています。真の保守思想家こそリベラルマインドを有し、自由を積極的に擁護すべきだと思っています。
 保守は、行きすぎた平等主義による人間の標準化を嫌います。権力によって均一的な横並びが強要され、秀でた才能や能力が虐げられた状況が現出すれば、即座にそれに異議を申し立てるでしょう。平等という名の画一化こそ、保守が断固として闘ってきた政治力学に他なりません。
 一方で、保守は「裸の自由」も懐疑的に捉えます。過剰な自由は無原則の放縦を生み出し、倫理を破壊します。社会秩序は乱され、世の中が混乱の渦に落とされます。風紀が乱れ、利己的な放埒が支配する世界を、保守は断固として拒否します。(中島岳志『「リベラル保守」宣言』、14-15頁) 

 一見すると、両者は全く異なる主張をしており、何でこれでお互い「保守」を名乗っているのか、疑問に思うかもしれない。しかし、両者は共にある点を共有している。それは「大衆批判」である。

 ここで「誰かの奴隷であっても、生きているのだから、しかも豊かな暮らしができるのだから、別に構わない」と思う人もいるでしょう。そのような人たちに、「すでに日本は滅亡状態にある。ゆえに保守の役割は、正常な日本を取り戻すことだ」と言っても通じません。そもそも前提となる「常識」を共有していませんし、当然「敗戦まで外国に一度も支配されたことがない歴史(伝統)」に価値を置いてもいないのですから。(倉山、同書、25-26頁)
 バークは、このような「等質的な大衆」による政治を「多数者の専制(tyrnny of a multitude)」と見なしました。「多数者の専制」こそが個人の秀でた個性や能力を踏みにじり、人間を均質化・平準化する悪しき制度なのだと語ったのです。バークにとってアトム化した個人の束としての「大衆」は、没個性的で醜悪な群れに他なりませんでした。(中島、同書、209-210頁)

 上記のような「大衆批判」のプロトタイプは、プラトンの『国家』にさかのぼることができる。日本人であるはずの両者がよく似たようなことを述べているのは、ヨーロッパの思想をもとに議論をしているからだ。そのヨーロッパの思想の源流にはプラトン哲学があるのだから、似たような議論になるのはある意味当然だ。

 『複雑さを生きる』の第4章では、第一次世界後にファシズムが隆盛した理由を、イスラエルの軍事思想家・ガットの議論を参照している。実は、ファシズムを信奉したり、共感を示していた人物は、実際にファシストが政権を握ったドイツやイタリア以外の国にもいたことだ。

 ファシズムは産業化・都市化・大衆社会の形成につづいて現れた現象であり、ブルジョワ文化に抵抗し、物質主義・商業主義・個人主義に反対する。民主化に伴うと看做される平民化・凡庸化・陳腐化を嫌悪し、根底的に改造された社会における生気あふれる創造的な若者を志向する。国民の伝統・神話・理想のもとに結集する共同体を通じ、大衆のエネルギーと忠誠心を動員することで議会主義・資本主義・社会主義を乗り越えようとする。ファシズムは、新しい技術の時代に対応した専門家に指導され、高度に組織された効率的な社会を目指す。(170頁)

 平成時代は、ファシズムと保守は違うとよく云われてきた。上記の論客たちも似たようなことを述べていた。だが、安冨氏はファシズムの背景にある思考を読み取ると、「理性を欠如した大衆/理性を保持した少数者」と云う構造がみられると云う。

 筆者はこの問題が本書で繰り返し論じてきた計画制御の不可能性と密接に関係していると考える。十九世紀を理性の黄金時代とするなら、世紀末はその理性への信頼がゆらぎ始めた時代であった。ここで言う理性への信頼とは、誰の精神にもひそむ判断力を活用し、ものごとを深く観察して言語化可能な形で理解すれば、予測と制御が可能となる、という信念のことである。
 第一次世界大戦は西欧という世界でもっとも理性を持つはずの国家群が、もっとも理性的でない相互虐殺を繰り広げたという事態であった。このような西洋文明の崩壊とも思える事態を前にして、理性への信頼は深刻な危機に直面した。この理性の危機に対処するひとつの有効な方法は、悲劇を理性の欠如した大衆のせいにする方法である。
 少数の選ばれた人間は理性を具有しており、それ以外の大衆は理性を具有していないと考えれば、その少数者が大衆を指導し制御することが、理性を復活させる方法だということになる。このような手前勝手な理性への信頼が、ファシズムの背後にあるのではないか。(172頁)

 実は、同時代を生きていた保守思想家・オルテガも似たような「大衆批判」を行っている。ファシズムが隆盛した時代に刊行され、平成時代によく参照された『大衆の反逆』では、「大衆人」を散々こき下ろしている。ちなみに、若手議員時代の安倍晋三氏はオルテガの主張に感銘を受けたと云う。(野上忠興『安倍晋三 沈黙の仮面』より)
 安冨氏は、「理性」を信頼する限り、社会主義や自由主義でも同様の構造にはまってしまうと指摘している。世の中が上手くいかないのは「大衆」のような理性がない人たちに問題があると考えてしまうか、陰謀論のようなものに走ってしまう。

 では、どうするか。

 ここで安冨氏は、リデル・ハートや孫子の議論、さらにレヴィストロースまで参照していき、「やわらかな制御」を提唱していく。「計画制御」とは、対になる思考だが、よくよく考えていけば、私たちの人生そのものが「計画不可能」だと教えてくれる。三日坊主と云う言葉があるが、あれは人間として正常な反応だと云うことを教えてくれる。


 しかし、保守思想も「計画制御を否定している」と思う通な読者もおられるかもしれない。私もそう思ったが、第5章を読むと、いよいよそうとは思えなくなった。 


 第5章では、「市場と共同体が対立すると云うのはまやかし」と云うことが述べられている。これがなぜ衝撃的なのかと云うと、保守思想では「理性」や「左派思想」のアンチテーゼとして「常識」とか「先人たちの積み上げた歴史や伝統」を提唱していく。この観念の背後にあるのは、「共同体」と云う存在だ。


 ちなみに、西欧の保守思想家にとって、「常識」や「歴史や伝統」はキリスト教や教会に行き着く。平成時代にたびたび参照されたエドマンド・バークの『フランス革命の考察』の主な主題は、護教論である。あるいは、20世紀を代表する保守思想家で作家のチェスタトンの主著『正統とは何か』はもろにキリスト教の話が出てくる。また、本人はクリスチャンではなく、ユダヤ人の家庭に生まれたハンナ・アーレントが20代ではじめて発表したのは、キリスト教神学を確立させたアウグスティヌスに関する著作で、彼女の著作は現代でもキリスト教神学書ではたびたび引用されている。
 キリスト教徒が少ない日本ではイメージしづらいが、ヨーロッパの社会はキリスト教の価値観で運営されている。単純に宗教の教義を信じる以上に、地域のお祭や冠婚葬祭、季節や人生の節目で教会のお世話になる。しかも教会は単体で運営されておらず、巨大な組織として運営されている。さらに、千年近く地域に根付いている教会もある。当然、教会の影響力は否応無しに大きくなる。歴史や社会科の教科書に出てくる「政教分離」は力がありすぎた教会をどうやって世俗権力がコントロールするのかを主眼にしていた。
 バークが批判していたフランス革命は、当初は教会を攻撃していた。革命前のフランスの身分構成は「貴族/平民/僧侶」であった。「僧侶」とは要するに、教会の聖職者のことだ。それが、貴族や平民とは別の身分として存在していたことからも、いかに教会が特別な存在だったのかがわかる。フランス革命では、そのあまりに大きくなりすぎた教会から権力を奪うことを当初の目的にしていたが、教会を攻撃すれば、教会が支えていた地域の行事が行えなくなったり、人々の交流がなくなり、ひいては「常識」や「伝統や歴史」を失うことになり、それが「狂気」を生むと云うバークの議論はヨーロッパにおけるキリスト教の伝統を知らないと、理解が進まない。
 だから、私が学生時代に読んでいた保守言論人はキリスト教の話をかなりしていた。その影響もあってか、私は大学をミッション系に選んだ。


 話を『複雑さを生きる』の「市場と共同体が対立するのはまやかし」に戻そう。
 「共同体」と云う言葉は、"Community"と云う名詞の翻訳である。この単語は、”Common”と云う形容詞と結びついてる。”Common"に”Sense”と云う名詞をつけると、”Common Sense"となる。この単語は一般的に、「常識」と訳されている。この”Common"に”Wealth"と云う名詞をつけると、”Common Wealth"となる。この”Common Wealth"は「国家」や「社会」と翻訳されている。他に、”Communion"と云う名詞では、「共有」や「親交」と云う意味の他に、「霊的な交わり」「宗教団体、宗派」と云う宗教的な意味もある。また、”Communion"とは、キリスト教の礼拝で行われる「聖餐式」を指す単語でもあり、その意味を強調するために、わざわざ”Holy Communion"としるすこともある。
 このように、「共同体」と云う単語の背後には、極めて宗教色の強い概念があり、それが「常識」「社会」「共有」などと結びついているのがわかると思う。
 ここまで読んでくれた辛抱強い読者は、「市場と共同体が対立するのはまやかし」と云う安冨氏の主張が衝撃的なのか、ちっともわからないかもしれない。しかし、「市場と共同体は対立する」と云う図式は、思想の右左を問わず、日本の言論人・知識人がありとあらゆる箇所で述べてきたことであり、私も信じていた。


 例えば、平成時代のリベラル言論人が危惧していたことは「新自由主義によって人間の生活が苦しくなる」であった。先ほど引用した中島岳志氏は、現代日本の諸問題は「トポスの喪失」にあると述べている。その一例として、2000年代に解禁となった「派遣労働」を批判している。

 この年(筆者注:1995年)、日経連(現在の経団連)は「新時代の『日本経営』」というレポートを出しました。そこで労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の三つに分けるべきだとする提言を行いました。(略)
 「雇用柔軟型」という概念は、派遣労働という形態を拡大させ、多くの若者が不安定な労働市場で買い叩かれました。彼らは代替可能なパーツとして扱われました。いつでも誰とでも付け替え可能な存在として利用され、十分な保障がない環境で働かされました。
 派遣労働は、人間のトポスを決定的に奪いました。その代わりに大人たちは彼らを「フリーター」と名づけ、新しい時代の自由なライフスタイルを実現する若者として称揚しました。
 政治家は規制緩和を加速させました。「日本社会の抜本的改革が必要」と叫び、社会基盤を破壊しました。社会には必然的に格差が広がり、二〇〇〇年代には遂に貧困問題が顕在化しました。無縁社会の中で孤立し、絆を失った若者は、極度の「生きづらさ」を抱え込みました。(中島、同書、195-196頁)

 中島氏の述べている「トポス」は「共同体」の云い換えであるのは、以下の文章からもわかる。

 われわれは長年にわたって、トポスを破壊し続けました。裸の自由を礼賛し、あらゆる拘束を疎んじてきました。そして、自らの実存を掘り崩してきました。
 いま取り戻すべきなのはトポスです。他者との立体的で有機的なつながりを回復し、中間共同体を厚くしなければならないのです。社会的包摂を強化し、地域における相互扶助の関係を再構築しなければなりません。(中島、同書、203頁)

 一方で、中島氏のようなリベラル言論人を批判している右派系言論人も次のような文章をしるしている。

 日本人は古来神仏先祖を敬い、「神仏のご加護と先祖様のお陰で今の自分がある」という人生観を育んできました。云い変えれば、自分がこうして生きていけるのも神仏とご先祖様、親のお陰だから報恩感謝の生き方をしなければならないと考えてきたわけです。(略)
 真珠湾攻撃において建国以来、初めて外国軍から本格的な攻撃を受けたアメリカは、大変な衝撃を受けました。時のルーズヴェルト大統領は、再びアメリカに歯向かってこないように日本を弱体化させるため、昭和十七年六月に、スタッフ一万人を超える専門機関「戦時情報局」(OWI)を設置し、日本研究を開始します。
 そして昭和二十年八月、日本が戦争に敗北すると直ちにアメリカは、占領軍を派遣して日本の政治・教育・文化・社会制度を徹底的に改革(改悪)しようとしました。
 その目的は「日本国が再び米国の脅威…ならざることを確実にする」という米国務省「降伏後における米国の初期対日方針」にありました。
 アメリカは当時、日本の強さの秘密は、天皇を中心とした強固な家族共同体にあり、その家族共同体を維持しているのが神道だと考えました。神仏祖先を敬う心をなくさせれば、家族はバラバラとなり、日本人はダメになっていくに違いないと考えたのです。(江崎道朗『フリーダム』、178-179頁)

 同書では、GHQの政策で「神仏を敬う心」が否定されたことや左翼の建築家の陰謀により、神棚や仏壇を置かない家庭が増えたことで、戦後の家庭では「年老いた親や兄弟の面倒を見ない恩知らずな大人たち」が生じ、生活保護時給者が増えている、と述べている。同書では、戦前の日本は「神棚・仏壇」が家族共同体を支え、「神社仏閣」が地域共同体を支えていたが、戦後にGHQや左翼の教育により、それらの共同体が破壊されたと、述べている。

 両著とも、思想的立ち位置が異なりながらも、似たような論理構造をはらんでいるのがよくわかる。どちらも、「本来あるべき共同体が破壊されたことで、現実社会で不条理なことが生じている」と云う論理で貫徹されているのがわかる。
 この図式の大本が「市場と共同体は対立する」であるのは、『複雑さを生きる』を読むと、上記に引用した言論人たちの先輩格の論客が同様の議論をしていたことがわかる。ただ、「市場」がリベラルでは「新自由主義」となり、右派では「GHQや左翼の陰謀」と言葉が置き換わっているだけである。

 では、「市場」とは何なのか。 

 「市場」について、もし上記のような思想書を読んだことがなくとも、以下のような文章はしっくりくるのではないだろうか。

 しかし現代社会はこのような生き方を許さない方向に進んでいるようにも見える。人間性のかけらもないグローバル・マーケットの力が世界を覆いつくし、それらなしでは生きることができない現代において、やわらかな制御は実現不可能ではないか。(180頁)

 多くの人は、「お金」と「人間関係」は別と漠然と考えてはいないだろうか。

 「金儲け」と聞くと、どこか倫理観を欠如させた行為のように思えないだろうか。あるいは、「お金」のために日銭を追いかけるような姿を想起しないだろうか。「お金」は数字の世界で、人間的な温かみがない。

 私は少なくとも、昔はそう考えていた。 

 上記のように、何となく考えてしまうのは、安冨氏が専門としている経済学が「市場」(マーケット)をそのような合理的で、人間の感情が一切入り込む余地のない世界と仮定しているからだ。イメージするのなら、大手ショッピングモールやAmazonなどが街の小さな小売店を廃業させていき、地域の人間関係を壊していくと云う感じだろうか。

 『複雑さを生きる』では、そのような無味乾燥な「市場」(マーケット)ではなく、人間同士が活発に交流している「バーザール」であると分析している。本書では、従来の経済学や社会科学が記述してこなかった「バーザール的な市場」は「共同体」と対立するどころか、むしろ濃密に重なり合うと論じている。そこで重要なのは、「コミュニケーション」であると、ドラッカーを引用しながら、論じている。

 ドラッカーや金井・金子の主張するように経済活動を捉えるなら、市場を価格と需要・供給で構成される「マーケット」と考えるのは不適切である。市場は現代資本制社会においてすら、人と人が関係構築と情報収集にいそしみ、激しいおしゃべりの喧騒のなかでやりとりが繰り広げられる「バーザール」だと考えたほうが現実に近い。(207頁)

 安冨氏は、現代社会はインターネットの登場により、市場がより一層「バーザール」化していると述べている。

 しかも、その傾向はインターネット化とボーダーレス化によって拡大している。なぜなら従来の国民国家によって守られた国民市場では、ある程度の均質性や制度保護を期待することができたのに対し、ボーダーレスのインターネット市場では、さまざまの出自のさまざまの文化を持つ人々が直接に出会うからであり、そのなかで自前のインターフェイスを構築し、全体の秩序を形成していく必要であるからである。この姿はロンドンの取引所よりも、モロッコのバーザールに近い。(207-208頁)

 この安冨氏の指摘は、私自身納得がいくものがある。

 なぜなら、私が現在、生計をなんとか立てられているのは、インターネットアプリのメルカリのお陰だからである。メルカリでの出品は常に、「コミュニケーション」が求められる。書籍などバーコードがある商品はアプリで自動的に説明文を作成することも可能だが、自分で文章を書いたほうが明らかに閲覧回数が上がる。商品購入後の対応にしても何もコメントしなくても取引は可能だが、こと細かくコメントしたほうが購入者からの評判はよい。また、メルカリでは、値段の設定は出品者が自由に決めることができ、コメント欄で出品者と直接値段の交渉が可能だ。メルカリでかなり出品している人のプロフィール欄や商品説明欄をみると、かなり詳細な文章がしるされている。

 本書を読むと、一月万冊を運営している清水有高氏がなぜあそこまで、大きな成果を上げているのかがよくわかる。清水氏自身が述べているように、本書の内容に大きく影響を受けているのがわかる。あるいは、流行りのビジネスがなぜ成功しているのか、を本書の視点で分析してみるとかなり発見があると思う。

 本書の最後に、安冨氏は以下のような文章をしるしている。安冨氏の現在まで続く基本姿勢が述べられている。

 複雑さを生きるためにわれわれは、頭で考える前に感じなければならない。そうすることではじめて「わたくし」たちは、いかにもたしかにともりつづけることができるのである。(211頁)

 ちなみに、林總氏と安冨氏は共に、ドラッカーの影響を受けている。

 両著とも、学生時代の私なら、手に取らなかった内容の書籍で、新しい発見がたくさんあった。私個人としては、2020年を飾る二冊だと思っている。両著とも「生きること」について論じているからである。2020年の新型コロナショックは「生きること」が問い直された一年だったと思う。


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