自己肯定感のやり直し〜今私が英語を勉強する理由〜

娘を産むまでの29年間の人生は、挫折の連鎖で谷の底に転がり込んで何度這いあがってもなかなか道のあるところまで出てこれないような…そんな人生でした。

始まりはいつからなのか分からないけど、物心ついた頃には母親に

『あんたは何をしても続かない子』

と言われていました。

田舎の中学校に通っていたけど、成績は中の上。5教科average80点というところでそこまで頭は悪くなく、夢は英語を勉強して『通訳などインターナショナルに働く人』で、もちろん志望校は、地元の進学校で英語科のある高校でした。

中学校三年生の頃、修学旅行から帰ってきた登校初日になぜか仲の良かったクラスの女子から突然無視をされて、その後もイジメの連鎖は瞬く間に広がりました。

気づけばクラス中から無視をされて居場所がなくなってしまった。『〇〇ちゃんに無視してって言われてるからごめんね。』と何人か言いに来てくれた人もいたけど、わたしにはとても受け入れ難い現実でした。

不登校になり、中学三年生で鬱になり、死にたいと考え自殺未遂までしました。

転校もできず、不登校になったことで成績はどんどん下がる。

学校に行きたくないけど成績は落としたくないと図書館で勉強していたこともありました。

当時の担任は私を何回も呼び出し『お前が何も喋らないと俺が他の先生から責められる』と言ってきました。

担任の先生もその言葉一つで大嫌いになり、教室まさに四面楚歌。

志望校には行けるはずもなく、少し遠い学校で英語科のある学校を見つけ、無事合格しました。

偏差値は44。

けど、高校もまともに通えず単位はギリギリで卒業。卒業後は、地元の公立短大に入学したけど、秋には学校に行かず中退。

後そこからは、取立て努力もせず、なぁなぁに生きてきました。

何度も何度もかわりたいと頭の片隅に思うけど、『どーせ私は努力できない』『努力するという才能がない』『何も続かないだめな人だから』そう思ってきました。

気づけば、努力する事も忘れていたし、打ち込めるものもなく、趣味もなく、

自分がしたい事がわからない。
自分の余暇でさえどーやって過ごしたら楽しいかも分からない。
楽しいと思える事や熱中できる事が見つけられない。

そんな自分になっていました。

そして、29歳の時、娘を出産したのですが、

ふと生まれ変わったような気がして2回目の人生をもらったような気がしたんです。

生まれ変わって幼い頃から人生をやり直すのは不可能ですが、母親として、娘の成長と共に0歳から生きれる人生をもらったような気がして。

そこから、また目標ができました。

娘をフィリピンの幼稚園に入れたい。そのために、それまでに、
私が英語を勉強しよう!

これが、私に新しくできた目標でした。(
なぜフィリピンなのかは、また別記事にしようと思います。)

中学生頃、私はそこしか生きるところがなかったんです。家からも抜け出せず、学校からも抜け出せない。他の世界を知らない。だから、つらくなって逃げ出したい時死ぬ事しか選べなかった。

もし当時の私に選択の自由があったら…また、選択の自由があることを、生きる所や生きる道が一つじゃないと知っていたらきっと自殺したいとは思わなかったと思います。

娘には、選択の多い人生を与えたいです。もし何かに行き詰まっても、ここじゃなくても生きていけるという抜け道や光や希望を与えたいです。
そして、幼い頃に、ここじゃない世界や生き方もあるという事を教えたいです。

第二外国語の習得がそれを可能にするという事と、当時のなりたかった自分にもう一度コミットしよう!という2つの気持ちが合わさって今回この事を決断しました。

もちろんフィリピンの幼稚園に入れるということはサラリーマンの夫を日本に残して、別々の生活をするということ。

最初は反対されるのではと思いましたが予想に反し、夫はわりとすんなり承諾。

こうして、

娘が3歳の幼稚園入学までに、言葉の習得、幼稚園の下調べ、幼稚園入学手続き、ビザの申請、家探しをする事を目標にしたのです。

この動機だとトイックは取立て要らないような気もしますが、自分に自信をつけたかったので、娘の幼稚園入学までに820点を目標としました。

コロナでこの先どうなるか分からず、もしかしたらそのまま日本の幼稚園へという決断をするかもしれませんが、今のところは、こういう目標を掲げています。

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