長崎県人として 1
長崎の街を歩くと、他所の人なら驚くくらい そこかしこでシスターを見かける。長崎ではそんな風景が日常なのだが、そもそもどうしてそうなったのかを辿っていくと、今からおよそ500年の時を遡ることになる。
当時の長崎は 布教のため訪れたヨーロッパの宣教師たちの寄港地だった。他の地域より圧倒的に多くの宣教師たちに触れ、また接触している時間も長かった長崎の人々にとっては、キリスト教(カトリック)が根付くのは必然だったのである。
我が故郷である五島列島は 長崎の中心から見れば、西方に広がる東シナ海の 数十km沖に浮かんでいる。長崎側から見ると、水平線の彼方にうっすら島の山並みが確認できる位の距離だ。最近は朝ドラの舞台になったりして 何かと話題になることも多い五島列島だが、手前味噌ながらその美しさは例えようがない。小高い丘から夕暮れの五島の海を見ると、その美しさに涙が出る程である。なぜ泣けるのか? と訊かれても理由は無い。
しかし五島列島には そんな美しい表の顔とは真逆の暗黒時代もあった。キリスト教が禁教であった時代、キリシタンにとっては苛烈な迫害の現場でもあったからである。
数年前『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』が世界遺産になった際、五島列島の教会や集落なんかも同時に認定され、旅行業会では宣伝に忙しいが、正直言うと 観光やレジャーの行先としては扱ってほしくない。ソフトクリーム片手に友達同士でピースをして記念写真を撮るような場所ではないと思うからだ(大震災の被災地にわざわざ行って 笑顔で写真を撮るアホに通ずるものを感じてしまうのだ)。
今回は少々真面目に長崎県人として、また五島を故郷に持つ人間として 思うところを述べたい(しかし私の価値観のフィルターも 少々かかっていることはお断りして)。
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主に江戸時代、キリシタンへの取り締まりが厳しく いつ捕まるかわからないような環境から逃れるため、多くのキリシタンが長崎県西岸の外海地区から、対岸である五島各島の浜に 手漕ぎの舟でたどり着いた。もちろんそれだけでは生きてはいけないから、住むところを見つけねばならない。しかし条件の良い入江や平地部分は元々島に住んでる者の生活エリアであるから、新参者はおよそ耕作に適さない土地や峻険な崖の上などに当たり前のように追いやられた。そして五島民はそんなキリシタンのことを居付(いつき)と差別的に呼び、邪魔者扱いしたことが文献から読み取れる。
上下を付けたがるのは人としての本能であり、性(さが)なのかもしれないし、新参者に自分たちの食料や漁場を取られることを恐れたのか、その時代に生きた五島の民は、着の身着のままのキリシタンを受け入れなかった。なんとも救いのない悲しい事実だ。
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