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時間で計る「人生のバランスシート」-1-

ギフトとして贈られる100年の時間! 
生きながられる時間が延びて、一生で可能になる体験が大きく増える。
この時間とは、一人ひとりの生きる体験そのもので、誰もが共通な「時計の時間」と異なります。
我々は今、この時間をどう生きるのかが問われています。


「公共の時間」と「個人の時間」が乖離する

まず、我々に与えられた時間の特徴を理解する必要があります。

普段、我々が漠然と考えている時間とは、過去-現在-未来と直線的に続く無限な「時計の時間」です。
一方、我々に与えられる時間は、当たり前のようですが始まりと終わりがあり、有限です。
ここには同じ時間でも、無限と有限という決定的な違いがあります。また、見えにくいのですが、個人の外部にあるか、内部にあるかという違いがあります。
この違いは、我々が成長して衰えるという有限の「身体」をが持ち、死を免れられないことに起因しているといえます。

また我々は、時間は均質で、誰もが同じ時間を歩んでいると考えています。
しかし、我々の身体には独自のビートがあります。そして身体を抱える個人にも独自の社会的なリズムや節目が持っていて、個人がそれぞれ自ら時間を自ら刻んでいきます。誰もが同じ時間を刻むことはありません。

個人の時間をみると、時間が早く進む人も、遅く進む人もいて、1日が23時間だったり、25時間だったりします。それが個人が公共の場に参加すると、個人の時間は「公共の時間」に絡め取られ、1日24時間という同じ「公共の時間」を進んでいかざるをえません。
それが現代社会の日常なので、二つの時間の違いに気づくことが難しいといえます。

@maruta_ichinyo

なぜ時間を考えるの?

ところで、なぜ今、時間の特徴を考え直さないといけないのでしょうか?

それは、長寿化の進み方が急すぎて、これまで我々が頼ってきた「公共の時間」の枠組みが、その変化に追いついていないためです。
これが生み出す数々の問題については、「3ステージ型人生モデルの限界」として再三、説明してきました。長くなった個人の時間を、これまでの「公共の時間」に合わせることで、様々な問題が生じます。

@maruta_ichinyo

我々は、自分の思い通り自分の時間をコントロールできていると思っています。好きな時に寝て起きる。これが休日なら許されますが、平日には許されません。
また、10年単位大きな時間の使い方も、教育期間→仕事期間→引退、と近代社会のなかで培われた「公共の時間」に決められ、我々もそれを合理的な時間の使い方だと考えて受け入れ、従ってきました。
このように、個々人が自ら時間の使い方を決められる場面は、思いのほか少ないものでした。

ところが、3四半世紀で平均寿命が40年も延びました。40年が一人ひとりの人生に与えられ、我々はその時間の扱い方を問われています。
そして、少なくとも我々世代は、長寿化に対応した新しい「公共の時間」は提示されないと想定されるので、時間は自分自身でマネジメントすると考えておくべきです。

我々は初めて人生100年時代を経験しています。人類史にこの時間の使い方のロールモデルはありません。そこで、一人ひとりが時間を考え直す必要が生じるのです。

時間のセルフマネジメント

しっかりした時間のセルフマネジメントができたとしたら、『LIFE SHIFT』が示したように、まず大きな時間の使い方が変わります。
就職前や、転職期間に思い切って数年間の「エクスプローラー」期間を設けてみたり、10年単位で「フルタイム・ワーカー」と「インディペンデント・プロデューサー」を行き来したり、様々な時間の選択が可能になります。

また、小さな時間の使い方も変わります。『LIFE SHIFT』が提示したのは、単に時間割を変えるとい小手先の作業ではなく、時間を使ってどのような「無形の資産」を作り、次の大きな活動に備えるかというものでした。
これは、マネジメントに経営的な視点を入れるという画期的なアイデアです。

『LIFE SHIFT』が示したのは、生産性資産、活力資産、変身資産という3つの「無形の資産」でした。
資産というと一般的に金融資産や不動産など有形の資産を指しますが、ここでは無形の資産だけ取り上げています。それは、マネジメント対象を身体的な活動にとどめることで、言い方を変えると、お金などの余計なものをそぎ落とした裸一貫の自分を対象に据えたことで、はじめて見えてきた個人活動(体験)の内部構造といえます。

しかし、『LIFE SHIFT』が示したのは、時間を無形の資産に変えるという点だけです。そこで、もう少し経営的な視点を徹底し、誰もが自分の時間のセルフマネジメントに活かせるように体系化を試みたいと思います。

体験の原資としての時間

与えられる時間は、我々の外部にある均質で無限な「時計の時間」や、社会で共有された「公共の時間」と異なります。

長寿命化で与えられた40年という時間は、自分が死んだ後も、自分と無関係に続くのではありません。
つまり、この40年という時間は、一人ひとりに直接与えられたもので、いったん個人が内部に抱えるものです。それが、その後の体験になっていくので、いわば時間とは一時預かりした「体験の原資」のようなものです。

当たり前ですが、時間が与えられなければ(寿命が尽きれば)、我々は何も体験できません。同じように、身体がなければ体験は叶いません。

身体は生まれながらにして、生きるための様々な機構を内在させていますが、体験を積み重ねていくごとに記憶が増し、生きるスキルや知恵が蓄積されていきます。このように後天的に獲得する情報群を総称して、とりあえず「身体知」と呼ぶことにします。

このように考えると、時間とは体験の原資であり、また身体知として蓄積されるものと考えられます。これを定式化すると、以下のようになります。
このレベルでは、「お金」は不要です。身体さえ維持できれば、お金があろうと無かろうと体験が可能だからです。

@maruta_ichinyo

時間基準の「人生のバランスシート」

時間のセルフマネジメント、つまり時間をどう扱うかという問題を、裸一貫の身体レベルで追求していくと、時間が循環していることに気づきます。

与えられる負債としての時間は、資産としての時間になり、それが費用として使われながら体験になる。その体験は時間(寿命増進)や身体知を生み出す、という身体をめぐる循環です。
そして、負債と資産、費用と体験はバランスしている。

つまり経営の貸借対照表(バランスシート)のように、人生においても、時間のバランスシートが書けることになります。

具体的な中味については、次回検討することにします。

(丸田一葉)

備考)
『時間の比較社会学』真木悠介、岩波現代文庫、1981年
『大人の時間はなぜ短いのか』一川誠、集英社新書、2008年
『財務3表一体理解法』國定克則、朝日新書、2007年
『 LIFE SHIFT 』リンダ グラットン、アンドリュー スコット、2016年

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