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雪やこんこん

 雪を見たのは久しぶりだった。最後の記憶はいつだっただろう。思い出そうとすればするほど、思い出したくない記憶のような気がして俺は逃げるようにまだ積もったばかりの雪を蹴った。それは思ったよりも軽くて、冷たさなんて感じなくて。あぁ、そうか。そういえばここの雪はこんな感じだったけな。なんてまた思い出したくもない記憶をたどってしまう。
 そういう町なのだ。ここは、昔からそうだった。パウダースノーが有名な町で、冬になるとスキーヤーがこぞって観光に来る。いろんな人が行き交い、活発な商店街を歩いていると、自分の住んでいる町なのに知らない町のように思えて怖かった。昔から、冬も雪もあまり好きにはなれなかったのを思い出した。
 また記憶を辿ってしまったことに苦笑いしながら、小さめな歩幅で一歩を踏み出した。雪を踏んでいる感触というよりも、埋まっていくような感覚が足に残る。粉糖のように降り注ぐ軽い雪も、降り積もれば足を絡め取り上手く歩けなくなる。マップで調べてみると目的地までは徒歩20分と出た。遠い道だ。こんなに歩きにくい道だったらきっともっとかかってしまうだろう。昔はもっと跳ねるように歩けたはずなのにな。歩き始めるとずっしりと重い感覚がまとわりついて離れない。一歩一歩、確かめるように歩いて進むしかないのだろう。

 景色はどこを見ても雪で埋まっていた。空はどんよりと重い。この町は冬になると晴れている日の方が少なくて、何をしていても落ちてきそうなほどの重くて暗い雲がつきまとう。太陽に反射されない雪は白と言うよりグレーで、お世辞にも綺麗な銀景色には遠い。日照時間が極端に少ないせいで、よくニュースでは鬱になりやすい地域なんて言われているけど、うんざりしたくなるような雪を目の前にして見るとあながち間違いではないのだろうなとも思う。

「まぁ、でもどこにいたっておんなじだろ」

 悪態をついたつもりだったが、言葉は喉で引っかかり上手く声に出なかった。まるで雪に声が吸い込まれたように静けさばかりが残ってしまった。やっぱりダメか。ほんの少しの期待は砕けて、あとはもうただひたすら黙って歩いた。

 やっぱりネットで調べた徒歩20分なんて当てにならなかった。正確な時間を図っていたわけではなかったけれど、駅から目的地まで35分くらいは歩いたと思う。革靴の先から靴下にまで雪がしみて冷たいを通り越して痛みがでて来た。出かけ際に雪国なのを思い出して一応靴には防水スプレーをかけたけど何の意味もなかった。今思うとタクシーにでも乗れば良かった。こういう鈍臭いと頃が俺が何もかもうまくいかない原因なのかもな。でもまぁ、ゆっくり歩いたおかげで気持ちの整理というか覚悟はできた、と思う。

言葉にできない「ただいま」をゆっくりと飲み込み、俺は玄関を開けた。

「あんた、帰ってきたの」

 玄関を開ける音も足音も極限まで消したつもりだったが、母は面倒くさそうに台所から顔を出してため息をついた。そうして何事もなかったかのように「あぁ、今日は冷えるね」と言いながら台所に戻って行った。

「帰ってきちゃ悪いんか」

そう言いたかったのに、言葉はやはり喉を通らない。

「私も歳なんだから、あんたの世話はできないよ」

 先日、母から久しぶりの着信があった。本当に唐突だった。母は俺のことなんか興味もないような人で、いつだって面倒くさそうにブツクサと文句を言っていた。小さい頃に父と母が離婚してからだった。それまでは、優しかった母は変わってしまった。俺の方を見もせず、話しかけてもくれなくなった。俺は嫌われていると思っていた。母と父が離婚したのは自分のせいなのかもしれないと怖かった。それでも俺にとってはたった一人の母親だ。好かれたくて褒められたくて色々試してみてはがっかりするばかりの毎日だった。結局のところ、母は俺を見てはくれなかった。だんだん大人に近づくにつれて、母は俺のことが嫌いなのではなくて単に興味がなくなったのだと気づいた。それは「嫌い」よりもつらい現実だった。

 悲しかった。悲しいよりも、悔しかった。できることなら、嫌いのままでいて欲しかった。悲しい気持ちをずっと胸に残したまま俺は大人になった。大人になって
から様々な人や生活に触れて、いつしかこの気持ちが煩わしさに変わる頃、母に何も言わず地元を出た。

 あれからもう7年経つ。今日まで一度も帰る事はなかったし、母からだって連絡はなかった。「母は俺に興味がない」の答え合わせを7年かけて行ったようなもんだ。思い出すのも嫌で嫌で仕方なくて、ただがむしゃらに働いた。働いて、働いて。どんなに辛いことも耐えて。

 そうして生きてきたのにいきなり、突然俺の身体から声が消えた。

 今までこんなことなかった。不安なことだってなかったはずだ。強いていうならあの日は全体の大事な会議の日で、俺は大きな企画のプレゼンを任されていた。確かに緊張はしていた。手も震えていただろう。でもそんなのはいつものことだった。心臓が早鐘を打つように動悸が止まらなくなったのはきっと、プレゼンの前の日に母の電話を受けたからだ。
 短い電話だった。ほんの3分くらいだったと思う。早口に要件だけ話す母の言葉を聞いた瞬間は流石に頭が真っ白になった。それでもやはり涙は出ない。可哀想だとも思う。でも代わってやりたいとまでは思わない。冷たい息子かもしれないけれど、母への愛はもうとっくの昔に消えて無くなっていた。
 そう思っていたのに、翌朝満員電車に乗って目を閉じると昔見た雪景色が広がった。ここは東京だ。そんな景色あるはずがない。そう言い聞かせても、瞼は何度も記憶を呼び起こす。やめろ、と言っても声にならない。声が出ない。助けて、という声も喧騒に吸い込まれていった。
 それからはあまり覚えていない。プレゼンもどうなったのか、会社をどうやって抜けてきたのか。そもそも出勤していたのだろうか。気づいたら俺は自分の家で、実家に帰るための飛行機を取っていた。明日の朝一の便だ。きっと着く頃には昼間でもこっちと比べものにならないくらい寒いんだろうな、と思ってスキーに行くときに着ていたダウンジャケットをクローゼットの奥から引っ張り出した。

「母さん」

声にならない声で7年ぶりに母を呼ぶ。もちろん実際には声になっていないので、聞こえてなんかいるわけもない。母はこちらを見向きもせずに、料理を作り続けている。

「かあさん」

何でだよ。何で声に出ないんだよ。何で、何も言えないんだろう。

「……今からご飯作るから食べてけば」

声にならない声に返事するように、母はぶっきらぼうにそう言った。ようやく振り向いた母の顔を俺は真っ直ぐに見る事ができなかった。どちらかというと恰幅のいい体系だった顔はひとまわり以上小さくなっていて、くぼんだ瞼が重そうに瞬いた。


「あんたの好きなもん、わかんないからさ」

 そう言いつつも食卓に並んだのは、俺の大好きな野菜がゴロゴロと入っているカレーだった。瞼がほんの少し熱く滲むのがわかって俺はごまかすように目を擦った。小さく手を合わせて、思い切り頬張った。どろっと濃いめの熱いルーが流れ込んでくる。変わらない、お母さんの味だった。「美味しいよ」と言えなくても、多分伝わっているだろう。子供みたいにかき込む俺の姿を見て、母がほんの少しだけ微笑んでいるのが見えたから。

「おかわりあるから」

そういって差し出した母の手にはたくさんの痣があった。

「母さん、それどうしたの」
「これね、怪我じゃないんだよ。なんだか病院行くと検査つって注射ばかりさせられるからさ。痛くもないんだよ」
「……検査結果どうだったの」
「まぁ、検査は良かないよ。……もう歳だからね」
「母さん、癌って聞いたけど」
「おかわりいるの、いらないの」

 俺の声は確かに声になっていないはずなのになんで不思議と会話が出来ているんだろうな。おかしいよな。7年も経っているのに、なんで母さんは俺の言いたいことがわかるんだろうか。でも本当に聞きたい事はやっぱり聞けなくて。きっとダメなんだろうな。自分の言葉じゃないと、この答えは返ってこないんだろう。
 俺が返事をしないままでいると母はひったくるように食べていたお皿を奪い台所へ行ってしまった。俺は追いかけるように台所までついて行った。
 俺も母も話し合うことからずっと逃げてしまった。悲しくて辛い子供の自分が、まるでそこにいるかのように思い出される。機嫌を取るように母の手伝いをした。母に褒めて欲しかった。笑って欲しかった。優しくして欲しかった。話したかった。聞いて欲しかった。でも一番は母に話して欲しかったんだ。辛いことも、悲しいことも、全部。本当はずっとずっと俺は母のことが好きだった。それはきっと、感じることができないくらい小さくはなってしまっても完全には消えてなくなったりはしないのだろう。

「それよりも何があったか話してほしい」

喉から言葉が滑り落ちるように流れ出た。あとはもう、簡単だった。あの時からずっと、言わなきゃいけない言葉はこの言葉だったんだな。

「……癌って本当?」
「……嘘なんかついてどうするの」
「俺、そんなに母さんのこと知らないからさ。本当かどうかわかんなくて」
「本当かわかんないのに帰ってきたのかい」
「うん。だって心配だったから」

母は頑なにこちらを向かない。カレーを温め直しているのか、いつまでもガスコンロの鍋に向かったままだった。

「私のことは大丈夫だから」

 いつもめんどくさそうに話す母の声は、震えていた。削げ落ちたように小さくなった母の肩がゆっくりと上下する。あぁ、生きているんだ。母は、俺がいなくなったあのあともこの古いアパートで変わらずに生きていたんだ。台所の小さな窓が白く陰っている。きっと雪が降ってきたのだろう。窓からひんやりとした冷気が入り込んできた。大丈夫。あの日にはもう戻れなくても、俺たちはまだ間に合うはずだ。なぁ、そうだろう。……そうであってほしいんだ。心から、そう思う。

「じゃあなんで電話してきたの」
「だってほら、医者は緊急連絡先は家族しかダメだって言うじゃない。あんたしかいないからさ。今更頼って申し訳ないとは思うのよ。あんただって生活があるんだろうし」
「俺のことはいいんだよ」
「1人で大丈夫なんだよ。本当に簡単な手術なんだって。ちょっと悪いところ切り取って、そんでおしまいなのよ。連絡先だけあんたにしなきゃいけなくて、帰ってくるなんて思わないから、だから、」

一息でそこまでいくと言葉に詰まったように黙ってしまう。今、母がどんな顔をしているのかわからない。こちらを向いていないだけではなくて、俺には母がこう言う時にどんな顔をいつもしていたか知らずにここまできてしまったんだ。

「……母さん。こっち向いてくれる?」

そう言うと観念したように母はこちらを向いた。くぼんだ瞼の奥の目にほんの少しだけ滲んだ涙が見えた。

「……あんたには迷惑かけたくない」
「うん」
「私は1人でやっていけるから」
「うん。あのさ、手術の時は俺も病院に行っていい?」
「……きたって何も楽しくないよ」
「いいんだ」
「あんたに優しくされても何もできないよ」
「いいんだよ」

母さん、生きていてくれるだけでいいから。

 そう言うと母の目から大粒の涙が溢れ出た。それでも声が出てしまうのを我慢しているように口をまっすぐに結んでいた。母はこういう人だったんだ。きっとあの頃も俺に聞こえないように口を結んで静かに涙を流していたのだろう。気づけなかった。母の悲しみには気づこうともしなかった。きっとそれは俺が頼りなかったから。まだ小さい自分の息子に、母は弱みを見せるわけにはいかなかったのだろう。
母は力強くグッと涙を拭き、またカレーの鍋に目をやる。

「あんたが長話始めるから焦げちゃったよ」

 今までのことはなかったようにぶっきらぼうな母にまた戻ってしまった。でもいいんだ。母が弱いところを見せてくれた。きっと、間に合ってくれたんだと思うから。

「……俺、母さんのカレーが大好きだよ」

「そんなの、子供の頃から知ってたよ。……あんたの親だもの」

 小さくなってしまった後ろ姿。カレーを混ぜる合間に母がもう一度瞼をこするのが見えた。

 窓に目をやると外はこんこんと雪が降っているようだ。今夜はもう外には出られないだろう。雪国の長い、長い冬だ。雪が簡単には溶けてなくならないように、母の癌も綺麗になくなってくれるわけではないのだろう。それでもいい。今はこの場所でゆっくりと2人、春を待ってみたいんだ。いつか雪解ける、その日まで。




昨年、乳癌で家族を亡くしました。その時に1番悔やみ続けた、会える時間の大切さを伝えたくて書きました。

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