見出し画像

長編小説2.

 私は悩んでいた。ホームルームが終わって何分経っているのだろうか。一枚の紙を目の前に、わざとらしく頭を抱えてみたりもした。ここが運命の別れ道。大げさでもなんでもなく中学生の私にとっては死活問題だった。

「あれ?ヨリ、まだ帰ってないの」
「まぁね」
「まだ決まんないの?」
「……まぁね」
「だから一緒のにしよって言ってんじゃん」
「だってさ、」

「無理だよ」と言葉を続けようとした時、彼女は「もぉ!」と苛立ったように紙を奪い取り何かを書いていく。

「はい、これでいいでしょ」

第一希望には枠からはみ出しそうな大きな文字で「美術部」と書いてあった。トモちゃんの大雑把さと強引さは小学校の頃から変わらない。そりゃそうか。たった一か月前まで私たちは小学生だった。そんな短期間で人間変わってたまるかって話だ。

「これで明日出しなね」
「そんな強引な……」
「だってヨリがいつまでも頼りないんだもん」

 トモちゃんから見た私はいっつも頼りないらしい。結構自分のことは男勝りな方だと思ってきたけど、トモちゃんは私以上の勝気な女の子だった。学年問わず男子から恐れられていたせいで小学校の頃はトモちゃんに逆らう者なんていなくて、言葉通り無敵だった。そんなとても強いトモちゃんの親友が私。
頼子、であだ名がヨリ。は建前で本当は頼りない、のヨリ。最初は頼りない、と言い続けたトモちゃんが呼ぶだけだったがいつからか皆にそう呼ばれるようになっていた。よく考えると悪いあだ名かもしれないけど、私はこのあだ名が好きだった。
頼りないのヨリ。いつか頼りがいができたってヨリのままでOKなんだ。どんな私でもヨリで良いんだと思わせてくれるあだ名だった。
 トモちゃんはどんなスポーツをやらせてもピカイチだった。かけっこもサッカーもバスケも野球だって、トモちゃんに勝てる人なんていなかった。でもそんなトモちゃんは何よりも絵を描くことが大好きだった。小学校の頃はよくトモちゃん家に行っては絵しりとりをした。綺麗な線で迷いなく書く彼女の絵と対照的なヨレヨレの線の私の絵。それを見ても決して下手とは言わず「まじでヨリの絵、超ハイレベルでスキだわ」と笑ってくれた。そういえば、私との出会いも絵を描いていた時だったな。写生会の時に一人で描いていたら「ここなんか静かそうじゃん」と言って隣に来てくれた。そこから好きな漫画とか話すうちに絵の好みも合うことがわかって……絵を描くことの楽しみを教えてくれたのがトモちゃんだったんだ。

「今日お母さんに見せなね」
「……見てくれるかな」
「見るでしょ。お母さんなんだから」

 当たり前のようにそう言うと一緒に帰ろうよ、とカバンを持ち直し下駄箱に向かった。慌てて荷物をまとめる振りをして、彼女にバレないように私はそっと部活希望の紙を小さく折りたたんでポケットにしまった。ごめん。ごめんね、トモちゃん。いつもの曲がり角でバイバイをしたあとの帰り道、心の中でたくさんたくさん謝った。


   家の玄関を開けた瞬間、大きな金切り声が漏れ聞こえた。私は気にせず声を無視して二階に上がった。階段登ってすぐにあるドアを開けると一番上のコウキ兄ちゃんが先に帰って来ていた。
「ノックしろよ」
ゲームに夢中でこっちを見もしない兄を無視して荷物を置くと、そのまま何も持たずに外に出た。まだ陽が高くてげんなりしながら近くにある河川敷のベンチに座り込んだ。夕ご飯の6時になるまでここで過ごすのが私の日課だった。
 私には自分の部屋がない。兄の部屋に荷物を置かせてもらっているだけだ。だから必然的に居間にいるしかないのだけど、居間では台所に立つお母さんが苛立ちながら私に「邪魔」と言ってくる。お父さんが帰ってくる前に食事ができていないと酷く機嫌が悪くなるから必死なんだ。お母さんはお父さんの言いなりだ。怒られるのが怖くて怒られないためにお母さんをしている。だからお父さんの嫌いな私のことも嫌いなのだろう。どこに居ても自分の家じゃないみたいだった。どこに居ても、私は邪魔なんだろう。だから夕ご飯までの間を外で過ごすようになったんだ。

 6時になると帰宅を促す町のメロディーが鳴る。この街に住む人たちは昔からこれを愛のメロディと呼んでいた。きっと子供の帰りを待つ親の愛のことなんだろうな。だから余計に、私はこのメロディが大っ嫌いだった。

 父も帰って来ているみたいだ。家に戻ると居間から楽しそうな声が聞こえる。私がいなくてもすでに始まっている食事。どこにいたのかも聞かれない。学校で何があったのかも聞かれない。なんだか気まずいまま食卓に座り、父に買ってもらったグローブを見せびらかす次男のユウキ兄ちゃんの横でただ空気のようにご飯を食べた。
 一番に食べ終わると「ごちそうさまです」と言ってすぐに立ちあがった。兄二人がご飯を食べ終えるまでの間、兄たちのどっちかの部屋で一人で漫画が読める。この時間が私にとって唯一の自分の時間だ。面白かった漫画は大体トモちゃんも読んでいて、次の日に感想を言い合ったりもした。トモちゃんを不意に思い出してそういえば……とポケットに手を入れた。カサっと紙が擦れる音がして私はそれを強く握り締める。これを捨てる勇気もない。かといってお母さんに言う勇気は、もっとない。ゴミのようにくしゃくしゃに丸めてもう一度ポケットにしまった。明日学校に行ったら捨てよう。トモちゃんに「ごめん」と謝ってお金のかからなそうな科学部にでも入ろうかな。そうしよう。きっとそれがいいんだ。

 皆のご飯が終わってバタバタと足音が聞こえる。入れ替わるように居間に降りてみんながいなくなった後の静かな食卓でひとり座った。この時間が一番涙が出そうになる。父と母の部屋。兄二人それぞれの部屋。そうしてもう一つ、いつも鍵がかかってて入ったことの無い部屋。私の居場所だけ、どこにもなかった。寝る時は一階の奥にある一畳半しかない小さな物置きスペースに自分で布団を敷いて寝た。でもさ、まだ友達の中に部屋を持っていない子もいたし。私だけじゃ無いから別に大丈夫。恥ずかしくなんかない。そうやって誰かと比べて自分を慰める時間が虚しく辛かった。

 そのとき、玄関のドアノブがガチャガチャと動く音がした。家族は全員揃っているはずだ。恐る恐る玄関まで行くと「開けてぇー」と言いながらドアを叩く音。恐くて誰かを呼びたかったけど、誰を呼んだらいいかわからず「だ、だれですか」とそのまま答えた。

「その声はヨリちゃんかな」
「えっ」
「うーんとね、とりあえず開けてくれる?」

ドアを開けるとそこには40歳くらいの言っちゃえばちょっと派手めなおばちゃんが立っていた。おばちゃんといえどもゆるふわパーマがかかっているかわいらしいショートヘア。服装は高そうなさらっとしたワンピース。揺れる小さなパールのピアス。こんな田舎の町にいてもどこか都会の空気を漂わせる人だった。

「ヨリちゃん久しぶりだね!」
「えーっと……」
「そっか、前会った時はこーんなに小さかったものね」
「ごめんなさい……」
「私ね、伯母の京子。あなたのお父さんのお姉ちゃんなの」
「あっ!」
「思い出してくれた?」

そういえば夏休みになると大量のお菓子を持って遊びに来てくれる人がいた。まだ小学校の低学年でうろ覚えだったけど、確かに、この人だ。それによくみると大きな目がお父さんに似ている。

「ヨリちゃん大きくなったね。今……中学生くらい?しばらく仕事で中国に行っててね。帰ってこれなかったのよ。日本に帰ってからの家もないし、これから一緒に住むことになってね。お父さんから聞いてないかな」

知らなかった。いや、私以外のみんなは知っていたのかもしれない。黙って首を横にふると「じゃあびっくりさせちゃったね」と優しく笑った。お父さんの笑った顔を見たことないけれどきっとこんな感じなのかな。ほんとうに、ほんとうに、優しく笑う人だった。

「あの、伯母さん」
「ちょっと!おばさんはやめよ!昔みたいにキョウちゃんでいいよ」
「……いやそこじゃなくてあの、」
「はいはーい。とりあえずさ、そしたらこの荷物運ぶの手伝ってくれる?」

「はー、重かった」と言いながらどさっと玄関に大きなバックを3つ置いた。完全におばさんのペースに飲まれてる。なんなんだろうこの人は。都会の人はこんなにも押しが強いのだろうか。

「部屋ってどこの?」
「あれ?もうなくなっちゃった?鍵のついた部屋が元々のわたしの部屋なのよ」
「あっ、そうだったんだ……!」

長年の謎が解けてすっきりしたのもつかの間、荷物を「ハイ」と持たされて部屋まで運ぶことになった。のんちゃんの部屋は二階の一番奥。お父さんとお母さんの部屋の隣だ。流石に階段のぼる音の大きさに驚いたのか父が部屋から顔を出す。

「おっ。ちょうどよかった。部屋の鍵、返して」
「お前明日着くって言っただろうが」
「だって思ったよりも早くついたから」
「はぁ?一言いえよ!お前もなんで許可なく家にあげてんだよ!!何してんだよ!」

父の声が私に向かって大きく響く。怖い。謝らないといけないのに怖くて言葉が出ない。どうしよう。間違えた。また間違えてしまった。また、おとうさんに嫌われてしまう。母が部屋の奥で様子を窺うようにこちらを見ていた。目が合うと「余計なことしないでよ」というように首を横に振った。

「ふざけんなよ!!」

父がそう言った瞬間伯母さんが両手に持っていった荷物を思いっきり床に叩き付けるように投げた。

「あんた……子供になんて言い方してるの!」
「関係ないやつは黙ってろ!」
「家族でしょう!!」
「伯母さん、もういいから。お父さん。聞きもしなくて勝手なことしてごめんなさい。」

思わず声が震えてしまった。二人とももっと言い合いたそうだったが、父は部屋に戻ると黙って鍵を渡した。

「お前、コイツの部屋には入るなよ」

私を睨み付けながらそう言い残して父は部屋の扉を強くしめた。残された私は逃げるように荷物を置いて階段を駆け下りた。涙が出なくてよかった。もう伯母さんには関わらない。怒られたくない。もう庇わないでほしい。巻き込まないでほしい。そっといさせて。大人になるまでは、私はここに居るしかないんだから。

お父さん、わたしの名前を呼んでもくれなかったな。


  布団の中に潜り込むとポケットの中の違和感に気づいた。丸めて入れていた部活希望の紙がない。もしかして荷物を運ぶときに落としたかもしれない。あんなの誰かに見られたらきっとバカにされる。下手くそなお前なんかがと笑われる。

「……イヤイヤ、そんなの絶対無理!!」

そう言って勢いよく起きあがり階段をそっとのぼった。電気をつけたら明るさでバレそうなので真っ暗の中手探りで探す。でもいくら探しても階段にも廊下にも紙は落ちていなかった。もしかして伯母さんが拾ったかもしれない。「入るな」と言われていた伯母さんの部屋。どうしよう。どうしたらいいんだろう。ノックするか迷っているとコウキ兄ちゃんの部屋で笑い声が聞こえる。たまたまトイレに起きてたまたま紙を拾ったかもしれない。兄二人であの紙を見て笑っているかもしれない。そうだとしたらもう手遅れだ。
諦めて部屋に戻ろうと階段を降りたところでパチっと電気がつく。上を見ると伯母さんが立っていた。私に気付くと口パクで何かを言っていた。私は声にならない言葉をなぞっていく。

「11時に、居間に、集合!」

確かに伯母さんはそう言っていた。


 11時になるともう皆眠りについてて、静かな夜に戻っていた。私だってこんな時間まで起きたことはあんまりない。都会の人は寝ないって聞いてたけど本当なんだな。眠い目を擦りながら居間に向かうとすでに伯母さんが待っていた。

「遅い時間にごめんね」
「どうしたんですか」
「これ、拾ったんだけどさ」

そういうとくしゃくしゃの紙をテーブルに置いた。トモちゃんの書いた「美術部」の大きな文字が見える。

「これ、お母さんに見せるやつなんじゃないかと思って渡したくて。ヨリちゃん、絵好きだったんだね」
「別に好きじゃない。友達が勝手に書いたの」
「そうなの?じゃあ本当は何部に入りたいの?」

顔がカッと赤くなるのがわかった。こんなことを聞かれるのを想定してなかったからその先に続く言葉が出てこない。黙っていると伯母さんは席を立ってノートの切れ端とペンを持ってきた。

「ヨリちゃん、私と絵しりとりしようか」

顔を上げてみるとそこにはいたずらっこの笑顔があった。多分もう化粧は落としているのだろうけど、それでも綺麗な人だと私は思った。

「まずは、私からね」

まだやるとも言ってないのに真剣に何かを書き始める。ふにゃふにゃの線が見えると私はフッと笑いが漏れてしまった。

「あっ、今笑ったでしょ」
「笑ってないです」
「嘘だー!」
「いや、だって言い出しっぺならもっとなんかこう……」
「うるさいうるさーい!ハイ、できた!」

見せてきた絵はお世辞にも上手いとは言えない線で書かれた何かの花。わずかに上がふたまたに分かれている5つの花弁なので、多分だけどこれは桜かな。桜の次の枠に私はラクダの絵を書いた。次は団子を書けばいいはずなのできっと楽なはずだ。伯母さんはすごい悩んでから、丸くて黒いボールのようなものに目玉が二つついている絵を描き始めた。

「えっ、これ何?」
「当てるのがお楽しみでしょ」
「いやこれは当たんないって」
「えー、よくいるじゃない」
「こんなモンスターよくいたら怖いよ」
「モンスターってあんた結構言うじゃん」
「いや……本当にわかんない。これ何?」
「それって降参ー?」
「うん。降参、降参」

私は両手を上にあげて降参のポーズをした。伯母さんは絵の横に「ダンゴムシ」と書いていく。自慢げに見せてきた瞬間、もう我慢できなくなり私は大笑いしてしまった。すぐそのあとみんなが寝てることを思い出して口をぎゅっと閉じた。そうか。ダンゴムシか。……言われてみれば確かにそう見えなくもない。しかし見れば見るほど味のある不思議な絵だ。

「よし!ヨリちゃんの負けね」
「これは……難関でした」
「じゃあ、勝ったからひとつヨリちゃんのこと教えて欲しいな」
「……何知りたいんですか」
「本当は、美術部に入りたい?」

わたしは悩んだ。まだ伯母さんのこと信じていいかもわかんないし、お父さんたちに言わない保証がない。もっと言えばおばさんがばかにしない保証がない。

「実はね、私も美術部だったんだよ」

下手だけどね描くの好きなんだよね、と付け加えて笑う。優しいその笑顔に信じれるかどうかよりも信じたいと言う気持ちがじんわりと湧いてきた。

「あの……私も……絵描くの好き、です」
「おお!一緒だね。じゃあ、きっと美術部に入ったほうがいいよ。大きなキャンパスで描けるの楽しかったからさ」
「でも美術部は画材とかでお金かかるって聞いて……」
「そんなのどこの部活もかかるんだからヘーキヘーキ。……お母さんに明日朝起きたらこれ見せて一緒にお願いしてみよっか。ね?そうしない?」

少し迷ってからゆっくり頷いた。伯母さんはにこにこしながら、しわくちゃの希望用紙を丁寧に伸ばして私に返してくれた。トモちゃんの書いた美術部の文字に水滴が一つ落ちて滲んでいく。泣いているのがバレないように慌てて希望用紙を綺麗に畳んだ。嬉しかった。何がこんなにも嬉しいのかわかんないんだけどさ。伯母さんのこと、信じていいのかな。信じたいな。だってこんなにも優しい人はここに居なかったから。涙を出し切るように瞼を閉じると目の奥がじんわり熱い。

「キョウちゃんありがとう」
「ふふっ。今日初めて名前呼んでくれたから、それで私はじゅうぶん。さっ、そうと決まれば明日の為に寝よっか。おやすみね」

ふわぁとわざとらしい欠伸をして伯母さんは部屋に戻って行った。私も自分の布団に戻りくるまるとブワッと我慢していた涙が溢れ出た。

「明日体験入部一緒に行こうね、ぜーったいだかんね!」

バイバイする前にそう言ったトモちゃんを思い出す。明日、お母さんにお願いできたらトモちゃんに朝一番に言おう。「だから大丈夫って言ったじゃん」とかあっさり言われるかな。でもきっと喜んでくれるはずだ。

 久しぶりに枕に嬉し涙が沁みていく。じんわりと熱いそれは私の胸の中にも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?