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海外暮らしで、日本にいる家族が死んでしまった時。

10年前にアメリカに移住して以来、ずっと恐れていたこと。
それがついに、起こってしまった。

普段はアメリカのオレゴン州に住んでいる私。先日、仕事でハワイに出張中、日本にいる母からLINEで「おばあちゃんが危ない」との知らせが。ハワイ出張は計10日間の予定で、まだ到着したばかりのタイミング。取材がぎちぎちに入っているけれど、それはなんとか事情を話せばリスケジュールしてくれそう。けれど、問題は……。


パスポートを持ってきていない!


オレゴンとハワイは同じアメリカ合衆国なので、渡航にパスポートは不要。なので当然、持っていない。万が一なにかあって紛失したら大変だもの。

日本に行くには、パスポートが絶対的に必要で、さらに私の場合、グリーンカード(永住権のカード)も必要。さて、どうするか……。

母からLINEで状況を聞くと、老人ホームにいた祖母は数日前から食事が摂れない状態になっており、病院へ移り検査をすることになったらしい。検査の結果次第では危ないかも、とのこと。とりあえず検査の結果を待つことに。

待ちながら、ぐるぐる考える。
選択肢は、ふたつ。

選択肢①
オレゴンにいる夫にパスポートとグリーンカードをハワイに郵送してもらい、ハワイから直接日本へ行く。
ハワイー日本はフライト数が豊富で、飛行時間も短いので楽。
ただし郵送に時間がかかる(知らせを受けたのが日曜、翌日の月曜はアメリカの祝日なので、火曜朝に速達で送ってもハワイ着は木曜午後)。
この場合、パスポートを受け取って金曜にハワイを出発→日本着は土曜になる。

選択肢②
いったんオレゴンに帰り、パスポートとグリーンカードを持ってオレゴンから日本へ発つ。
この場合、知らせを受けた翌日の月曜にオレゴンに行けば、その翌日の火曜にオレゴン→水曜には日本に到着できる。
しかし移動距離が長く(オレゴンの空港〜自宅の移動もちょい不便)、オレゴン〜日本の直行便がバカ高い。

一刻を争うなら、②で今すぐオレゴンに戻る。猶予がありそうなら、①でハワイから日本へ。


そうこうしているうちに、検査の結果が出た。
今すぐに死ぬことはないけれど、いつ急変してもおかしくない状況とのこと。1カ月ぐらいは持つかもしれないし、明日死ぬかもしれないという、なんとも判断しづらい状況だ。

「おばあちゃんに、がんばって良くなって、家に帰って美味しいもの食べようねって言ったの。そしたら”うなぎが食べたい”って言ったんだよ。おばあちゃんらしいよね。だから、たぶん大丈夫。ゆっくり帰っておいで」

との母の言葉に背中を押され、①のハワイから帰る選択肢に決断。


さて次の関門は、オレゴンにいる夫に、パスポートとグリーンカードを速達で送ってもらうこと。予想のとおり夫はごねて大反対。紛失のリスクがあるのは承知しているけれど、トラッキングできる速達便なら、ほぼ大丈夫。アメリカの郵便システムの安全性は怪しいところがあるけれど、とはいえ10年前から比べればだいぶ向上しているし、そもそもグリーンカードや運転免許証は申請すると政府から郵送で送られてくるし。なんとか説得し、夫はしぶしぶ承諾してくれた。

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木曜の午後、パスポートとグリーンカードが無事にハワイに届いた。

しぶしぶ送ってくれたわりに、結婚証明書やSuica、ボールペンまで同封されていて、しっかりビニールパウチに入れてくれていた。アレレ、こんなに気が利く人だったっけ?と意外な嬉しさこみあげつつ、翌日のフライトを予約。

しかし……。

そうこうしている間に、祖母が亡くなったと、母からLINEがありました。

ちょうど母や叔父、従兄弟たちが病院を訪問していた時に溶態が急変し、ほんの10分ほどで亡くなってしまった、と。


郵送ではなくオレゴンに戻っていたら、きっと間に合った。けれど①を選んだ時に「もし間に合わなくても、それで良しとしよう」と決めていたので、自分のことは責めない。最後におばあちゃんに会えなかったのは残念だけれど。

不思議だけれど、パスポート待ちでハワイに足止めをくらっていた間の5日間、出かける先々で、偶然にも会いたいと思っていた人と出くわすことが多発した。車で移動中に路上撮影をしていたカメラマンKちゃんを見つけたり、突然参加したイベントに元ルームメイトのMちゃんがいたり、取材で訪れたお店にコーディネーターMさんがいたり。あの時すぐにオレゴンに発っていたら、会えなかった人たち。「今後の縁を大事にしなさい」とおばあちゃんが引き合わせてくれたのかも……なんて都合良く受け取って、自分を納得させた。


出発の朝、カフェで友人と朝ごはんを食べて、別の友人が空港まで送ってくれて。思いやってくれる友人がいるって、本当にありがたくて心強い。やっぱりハワイは私の第二のふるさとなんだな。

けれど、急に一人になった空港で、ホノルル空港名物の長蛇のTSAに並んでいたら、涙があふれてきてしまった。泣けてなけて仕方がないほどに。

お土産をたくさん抱えた人たち。はしゃぐ子供とお父さんお母さんの笑顔。日焼けしたばかりの肌がうれしそうな女の子。中身がぱんぱんに詰まって重そうなスーツケース、ホノルルクッキーの大きなショッピングバッグ。そんなハワイの日常的な、バケーションでしっかり幸せを充電した人たちの光景が、この時ばかりはグリグリと刺さってきた。

泣いたらいかん。せっかくの楽園ハワイの景色に、泣いてる女がいたら怖いし引く。

そう言い聞かせても涙を止めることができなくて、だけど誰も私のことを見てはいなくて、人々の無関心さに救われるとともに、孤独が浮き彫りにもなり、自己憐憫にひたるにはもってこいのシチュエーションにさらに涙があふれた。


祖母は、94歳。
大病で長患いすることもなく、子供や孫に囲まれながら息を引き取った、ある意味とても幸せな最期だったと思う。本当に。

日本に一時帰国するたびに「会えるのはこれが最後かもしれない」と覚悟していたつもりだけれど、そんなものは全くなんの役にも立たなかった。めちゃめちゃ悲しくて、胸がつぶれそうだ。「幸せな最期だったよ」なんて大人の対応はできなくて、子供に戻ってわんわん泣いた。

祖母は、勤め人の母の代わりに私たち兄弟を保育園に迎えに来てくれたり、身近でなにかと世話をやいてくれた人で、大好きなところと面倒臭いところの両方を共有している、まさに家族そのものだった。たくましく豪快かつ愛嬌たっぷりで、とんでもな話も逸話もたくさん持っている人で、思い出も数え切れない。

幸いなことに、お通夜も告別式も参列することができ、祖母のマンションや老人ホームの片付けも少しだけどお手伝いすることができた。けれど、私は海外から一時帰国している身で、中途半端にしか関われないことが申し訳なく、さみしかった。家族のことなのに、お客さんのような立ち位置の自分が、情けなかった。


こういった話を海外在住の友達にすると、「そうだよね、私の時も……」と、みんな似たような経験を持っている。闘病にずっとは付き添えない、最期に立ち会えない、事後処理が日本にいる家族や親戚まかせになってしまう、など。海外移住を決めた時すでにわかっていたことだけれど、やっぱり現実にふりかかると、ずっしり重い。

そして何より、今こうしてオレゴンに戻ってみると、すべてが嘘だったような気がしてしまう。祖母はまだ老人ホームにいて、来年私が帰国したら、また会えるんじゃないかと思えてくる。このフワフワと喪失感が薄れていく感じが、なんとも不誠実で、おそろしい。


私はまだしばらくアメリカで暮らすことになると思うけれど、この先もずっとこのままでいいのか……?と、いろいろと考えてしまう。順番だけで言うなら先にいくであろう両親の時は、そして自分の時は、どうする……?

すぐには答えが出ないけれど、いま一度、しっかり考えなければいけない時期なのかもしれないな、と思う。

お読みいただき(ラジオの場合はお聴きいただき)どうもありがとうございます!それだけでも十分うれしいのですが、サポートいただけると大変励みになります。オレゴンで小躍りして喜びます。