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じーちゃんばーちゃん

もう二人ともとっくに天に召されたが、東京には父方の両親、つまりわたしのじーちゃんばーちゃんが暮らしていた。

仙台から上京していた母親は縁あってその家に嫁ぎ、しばらく同居をしていたという。

じーちゃんは東京生まれ東京育ち。
早稲田大学を卒業すると江戸文学の研究家になり、聞いた話では、"まんるじっぽ"(漢字がわからない)というペンネームで著書もあるらしい。
この辺はググってみたがなにもわからなかった。
ただ、父や母などから伝え聞いたことは、酒瓶に管を通して呑みながら執筆していたらしい。
つまり、アル中だったのだ。
でも、厳しいところもあり、一家の主であるじーちゃんが食事を終えるまでは、次男坊(我が父)とそのお兄さんと妹は、正座で待ってなくてはならない。
そして、長男が次ぎに食べ、次男(親父)妹と残り物を食べていく。
ずいぶんと古めかしく厳しい。

そういえぱ、じーちゃんは戦争が終わって無事に戦地から帰ってくると、開口一番に「トウモロコシが食べたい」と要求したそうだ。
父親も次兄もわたしもトウモロコシは大好物だ。血の繋がりを感じる。

じーちゃんとの思い出はほとんどない。
わたしが小学六年生のときに、アルツハイマー病で亡くなってしまったのだ。まだ六十代で。

その訃報に、当時高校生だった従姉なんかは気の毒に修学旅行に出発する新幹線のホームで引き留められ連れてこられた。
亡くなったショックも受けただろうが、腹の中ではじーちゃんのバカ、と思っていたにちがいない。

当時名古屋に住んでいたある夏休みに、じーちゃんばーちゃんが東京から遊びにきたことがある。

じーちゃんは次兄と前の広場で凧揚げをしており、わたしはというと、厳しいばーちゃんに捕まり、正座して半日夏休みの宿題をやらされた。
あれは拷問だった。
だってわたしだって友だちと外に遊びに行きたかったんだもん。

そのとき、じーちゃんは母にこう言い残したという。
「N (次兄)は難しい子だから気をつけて育てるんだぞ」
じーちゃんの言葉はまさに当たっていた。
次兄は、高校に入ったらグレはじめ、しまいには危うく警察沙汰になるまで堕ちていた。
しかし、名誉のためにいっておくが、次兄は、その犯罪組織から早々に抜けたのだ。俺、殺されるかもしれない、とかいいながら。どれだけ勇気のいったことだろう。
しかし、殺されることもなく、いまは落ち着いてお嫁さんと二人名古屋で仲良く暮らしている。

じーちゃんのアルツハイマー病は、進行が速く、徘徊したり部屋にう○ちが散らばっていたり、大変だった、と介護をしていた伯母から聞いた母親から聞いた。

最後がどうだったかもわからないし、お通夜告別式のために上京しても、まだ子供だったわたしは退屈で、従兄が遊び相手になってくれて、五目並べとかをしていた。
あとのことはよく覚えていない。
だからじーちゃんの執筆した本にも触れられなかった。だってどんな仕事をしていたのかも知らなかったのだから。
でも、じーちゃんの書いた本、読んでみたかったな。。。

いっぽう、ばーちゃんといえば、なんと津田塾を卒業したインテリ。
しかし、家庭のことはなにもできず、夕飯には買ってきたコロッケなどのお総菜が食卓にならんでいたという。
そんなまる家にしょっちゅう出入りする「タケオ」という謎の人物がいて、その人がまた料理上手で、よくタッパーを持って遊びにきてくれたらしい。

両親が結婚し、その家で同居してすぐに大阪への転勤が決まり、そして移り住んで間もなく長兄(T)が産まれた。
長兄は「だから俺は阪神ファンなのだ」と豪語している。そのわりには関西弁が染み付いていない。
それもそうだ、大阪からすぐに名古屋へ引っ越してきたからだ。同じく父親の転勤で。
そこで、次兄が生まれ、その四年後に長女のわたしが生まれた。
待ちに待った女の子とあってか、父親は大喜びでピアノとお雛様を買ったという。気が早い(笑)

わたしは「志保」という名前を母親からつけてもらう予定だったが、なぜか急にじーちゃんが割って入ってきて「K子」と名付けろといいつけられたのだ。
どうやらベトナム戦争の終息を祈ってつけたかったらしい。
あたしゃ子なんてつくの、嫌だったよ。もう、いまでもじーちゃんのこと恨んでるからね!

高校生くらいだったかな。ある日、夢を観た。エレベーターに乗り込むとじーちゃんが立っていて、わたしの体の中にすうーっと入ったのだ。
なにか意味深そうだが。
よくわからない。
でも、それまであまり本を読まなかったわたしが読書に目覚めた記憶がある。

そんなじーちゃんの遺言交じりの名前をつけられたわたしは、男の子のように外で真っ黒になりながら遊んでいた。
小学生のうちに家出をしたのは三回。
なぜかバレて首根っこ捕まれ、家に連れ帰らせられた。
そんな小中高時代の行いの悪さを、あまり家にいなかった父親も母親も我関せずと過ごしていた。
お小遣いだけはたんまりもらってたからね。
遊んじゃうよね。

しかし、そんなわたしも紆余曲折を経てピアノ講師になる。

その直前に、ばーちゃんが遊びに来た。
春日井市の高台の比較的ゆったりとした家だ。
ばーちゃんは東京から、浜松の長女(父親の妹)の家に立ち寄り、数日過ごして我が家にやってきた。
「A(父の名前)、あんだ偉ぐなったんだねえ」
そうそう、ばーちゃんは秋田生まれだからひどいズーズー弁だった。トトロにでてくるあのおばあちゃんより訛りがひどい(笑)
春日井市に移り住んだ頃にはわたしもピアノのヤマハのグレード試験を受けまくり、数年でピアノ講師になったのだ。
一日七時間くらい練習しないと音大出ではないので、追い付かない。
しかし、ばーちゃんが遊びに来てるので、なかなかピアノに触れられず、引っ張り回されていた。運転して観光名所を回ったり、大きな公園に行ったり。
ばーちゃんは嬉しそうだった。

わたしが二階でピアノを弾いていると、「K子!  K子! どごさいっだ?」と騒ぐので、練習前には「いまから練習するね」と断ってからピアノの部屋に向かうことにした。
夕方には運動がてら庭を散策して歩き回った。
ばーちゃんはひとときもわたしを離してくれなかった。

二週間ほど滞在していただろうか。
ある夜、夕食時にテーブルにしがみついてばーちゃんが泣き出した。
「おら、東京に帰りだぐねえ。こごに居だいよ」
すると、父親は席を立ち、激しい口調でいった。
「N子(母)も気が気じゃないって休まらないんだよ!K子もあんたに付き合ってばかりで勉強に差し障るだろう!いつまでも甘えてこられてもみな忙しいんだ!」
「K子、おばあちゃん、こごが良い!」
わたしは返事に迷ったが、たしかにピアノの練習は思うように出来ていない。
でも、もう一、二週間くらい延びてもいいんじゃない? と言い返したかったが、父親の形相と剣幕にわたしは勇気を失った。
ばーちゃんは、数日後、泣きながら新幹線に乗って帰っていった。

それからは、東京で働く友だちと会うために兄のアパートに泊まりにきては世話になり、ついでにばーちゃん家にも遊びに行った。
「よぐ来だねえ。お茶入れっから座って。あんだ、腹減ってない?」
「いや、大丈夫」
すると、謎の人物「タケオ」氏が作ったという煮物や炒め物が入ったタッパーを運んできて「いっぱい食べらいん」と勧めるのだ。
仕方なく小皿と箸を取ってくると、わたしは「いただきます」といってそれらを食べた。
それは、とても美味しかった。旨味が利いていて、しょっぱくもなく薄味でもなく、本当に美味しいとしかいいようがなかった。
我が長兄も、上京してしばらくばーちゃん家にお世話になってた時期があり、報告すると「なあ、タケオおじさんの飯、旨いだろ」といっていた。

わたしがタケオおじさんの料理をパクついているそのとなりでばーちゃんはなにをしているのかというと、英字新聞を読んでいるのだ。
なかなかページをめくらないから本当に読んでいるのかわからなかったが。
でも、八十過ぎて英字新聞を読んでるのはすごいなあ、と単細胞なわたしは感心してしまった。

「もうそろそろ帰ろうかな」というと、急にあちこちをひっくり返して、腕時計やらブローチやらを持ち出し、わたしにくれるのだ。
「そんな、高価なもの、要らないよ」
「いんや、商店街でもらったものだがら、いいのいいの。持っていかいん」
なんや、もらいもんかい。
しかし、せっかくのばーちゃんの心遣いを無下にしてはいけないので、「ありがとね」ともらっておいた。

それからは、わたしも嫁に行って忙しくしていた。
ところが、その日は突然にきた。

ばーちゃんが、倒れたのだ。
脳梗塞だということ。
我々名古屋チームが新幹線に乗り病院に駆けつけた頃には、もうばーちゃんの意識はなかった。
あとで従姉に聞いたら、ばーちゃんと一緒に暮らす伯母さんとの間には確執があり、よく怒鳴りあっていたという。いつも険しい顔をしていた、と。

わたしが病院のベッドで寝ているばーちゃんの右手を掴んで「おばあちゃん、わかる? K子だよ」と話しかけたら、長兄が横から「左脳がやられたんだから感覚あるのは左手だぜ」と淡々といった。
なんや、左手かい。はよいえや。
わたしは左手を握って同じことを繰り返した。
ばーちゃんは意識を失ってから三日後に息を引き取った。享年八十九。
長生きしたよ。うん、うん。。。

東京からも遠いので、お墓参りにはほとんど行っていない。
昔ながらの傾向で、長男がとても大切にされるという環境が、父親には恨めしかったのだろう。父親がじーちゃんばーちゃんと仲良くおしゃべりするという場面をとうとう見ることはなかった。
長男のH伯父さんは、昭和のいわゆる頑固親父で、ワンマンだった。次男坊の父親とも確執があった。わたしもちょっと苦手な人だった。
肺がんで亡くなったが。タバコをよく喫む人だった。
だからか、うちの父親はタバコが嫌いだ。

そんな父親に育てられた長兄、次兄はヘビースモーカーだった。
喘息のわたしになどお構いなしにぷはーと煙を吐いていた。
おかげで、毎年お盆も年越しも、兄たちが、それぞれ帰ったあとで、わたしは喘息の発作を起こし、病院に厄介になっていた。
妹が死んでも構わないのか、君らは。
と、怒る人もいない。

ばーちゃんの形見の俳句はいま、リビングの棚の上に飾ってある。
『母のあと追うて転げる子猫かな』
ん?季語は? まあ、いいか。

じーちゃんには使っていた万年筆でも貰っとけばよかった。
なんせ小学生だからね。
まだ小説家を目指してはいなかったしね。

そうそう、まるを名乗る末裔が、うちの娘で途絶えてしまう。
全国の他のまるさんたちのことは知らないが。
なにも商売とかしてないが、とくに地主とかでもないし。
でも、娘にはお婿さんを募集している。
まるの名前を絶やしてはならない。

わたしの小説がもし文庫本になるのだったら、じーちゃんのペンネーム「まんるじっぽ」からちょいともらって、「まんるひゃっぽ」にしようかな。
じっぽが十歩だったらのはなしだが。
いずれにしても、この家系でまるの名を留めている最後の人間が我が娘だ。
重責がその肩にのし掛かっている。
どうなる? まる家?!

つづく
・・・かもしれん。わからんが。





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