2023年2月26日(日)

 風の強い日、気温は10度くらいで晴れ。

 髪の毛を切った。もう少しで聖子ちゃんヘアーにできるな、と思ったけど、それよりスッキリしたい気持ちが勝った。閉塞気味な毎日に風を通す。

 僕に足りない感情は、「怒り」だと思った。だからと言ってムカついたことがある訳ではないが、僕は今まで他人の「怒り」の感情を、上手く避けて生きてきた。と言うよりは、「怒り」に対して無関係であろうとしていた。「怒り」はあまりにもストレスフルだからだ。

 でも心に牙を持つことは、能動的な生には必要不可欠なことだ。穢れがあるから浄化されるように、心の逆立ちがなければ安心は訪れない。

 「正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです」とカミタは言った。これは昨日の読書ゼミで触れた村上春樹の短編『木野』の一節だ。

 自分に対しても、世界に対しても没交渉的であることは、とても楽である。しかし他者との関係を絶ってしまえば、人は生きていけない。人間はどこかで、世界と関係を持たないといけないし、持たずにはいられない。僕たちは常に、何かを求めている。

 では、僕たちは何を求めているのか。これは簡単に答えの出せる問題ではない。偶然と必然が複雑に絡み合った、有機的な問題である。底なしの沼であり、宇宙の無限の広がりである。この「混沌」の中を、僕たちは生きている。

 「怒り」とは健全な感情である。不条理、理不尽、やるせなさ、虚しさ、淋しさ、違和感に対する能動的な反応である。暴走すれば破滅をもたらし、上手く使えば浄化をもたらす感情である。まさに両義的だ。

 「怒り」は「正からざる」ものであると、僕は思っていた。人が怒っていれば不快な気分になるし、自分が怒っている姿は醜い。怒りは禍々しいものであるとばかり考えていた。しかし、本当はそうではない。怒りによって人は気づきを得て、祈りという超越的な行為に向かう。怒りは他者理解の入り口であり、自己理解の入り口でもある。

 上手く言い表せないが、これは「人を愛する」ということに繋がっていると思う。喜怒哀楽を素直に働かせることのできる場所に、愛は生まれるのではないか。人間関係や「人を愛する」ことが分からなくなっている時、感情のどこかに「もつれ」があって、僕たちはそれを丁寧に解いていく必要がある。

 一般的には、これはあまりにも当たり前の話だと思う。今更何を言っている、と多くの人は感じるかも知れない。でも、不器用な僕は、回り道をしなければならない星に生まれてしまった。

 今日も澄んだ夜空が広がっている。風が音を立てて吹き抜けていく。僕は煙草を吸って、自分の心臓の位置を確かめる。


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