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わらびを採る人

 不知の雪解けにはじまる小川の訪れとともに、温暖な気候が野に色彩を吹き込むころ。私はひとりの人を見た。
 そこは市内にいくらもある浜のうちのひとつだった。湾入した自然地形を利用した港で、早朝の船が緩慢な波に揺れていた。
 私は測量用のスタッフを延ばして点に立って、次の指示がくるのを待っていた。浜を背後にした私の前方には山が衝立のように立ち上がっていた。この作業の主体は測量機を肩にかけてそちらへ向かっているのだった。竹のように育った葦の群生が少し以前に刈り倒され、それらが足をとって歩行を難しくしていた。そうした事情もあり、この時間はしばらく続くことになった。
 指示を待ちながら、私は何とはなしあたりを眺めていた。すると住宅地のほうから、年老いた女性がひとりやってくるのが見えた。この道は、崎に養殖場があるくらいで、その従業員だろうかと思っていたが、そうではないらしい。というのも、路傍の草むらを見やり見やり、時々草を掻き分けては道に戻りしてやって来るのだった。後ろに組んだ手にはレジ袋を握っていた。
 山菜をとりに来たのだなと了解した。それは季節の光景であり、よく見かけることだった。
 そのとき私の脳裏をかすめたのは、地場産品を売る観光客用の市場だった。それは僻地の観光地らしく、寂れた賑わいを示すものだった。ネームバリューのある産品を中心にした棚が並ぶ店内が活気をみせるのは、せいぜい長期連休のある時期に限られ、最近では通りかかっても開店している風もないような、そしてこの地域にしては似つかわしくない巨大な建物の印象だけが頭に残っているあの施設だった。
 彼女の今朝の山菜とりは、そうした産業的側面から切り離された時間として私には映るのだった。行政や企業がどうやって対外的に資源を商品化し売り出そうと考えている足許にある生活だった。けっして貧によって彼女らの今朝の光景があるのではない。彼女らはそれをただ楽しみとして、つまり娯楽としてそれをし、家族や近隣の食の楽しみとしてそれを持ち帰っている。ここにはごく小さくローカルな経済だけがある。充足した生活を見る思いがした。そして、この文化を商品化して一般にいう経済の流れへと接続してはいけないなどと思ったりした。

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