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福島聡『少年少女』について

 ストーリーは覚えていないけど、断片的に場面だけがときどきぶり返す。福島聡の読み切り連作集『少年少女』(エンターブレイン)。その第3巻の最初の話は絶対音感をもつ少年が、少女と出会う話「ドレミファソラシド レミ ソラミ」。何年も振りに今またその話を読んでいた。地下鉄のホームでたまたま出会った少年と少女が、習い事をさぼって街にあふれる音を拾っては、少年が音階を読み取り少女が笛で鳴らす遊びをする話。福島聡は聴覚が一般より過敏なのかもしれないな、と話の後半に、二十歳前後に成長したふたりがたまたま再会するシーンで、かつての少女が「ヤダ」という口癖をくりかえすのを読みながら思っていた。
 福島聡の作品世界に初めてふれたときから感じていたことだったが、そのことがすこし言語化したようだ。市民権をもつ記号的な擬音を使わないし、キャラクターはどれもノイズっぽい癖をもっていた。実際の人の喋り方という感じがする。普段私たちの処理性能は不要な情報として認知にあがらないようにしている癖=パターンが、創作物という丸めて出すことを前提とする媒体のなかで登場すると、煩雑で騒がしい感じになる。

 私も高校生のころはよく物語を考えていて、そういう情報が丸められること、意味的な情報を切り出して無意味的な情報は削り落とされることを思っていたことがあった。型に入ることの面白さを感じたり、型に入らなかったものの表現の仕方に悩んだりしていて、福島聡はそのひとつの答えだと思った。

 「ドレミファソラシド レミ ソラミ」で印象的な場面がもうひとつある。習い事をさぼって「ゴコクジニゴゴゴジ」に集合しようと約束したふたりが、少年の絶対音感で街にある音を採集するあそびをはじめるシーンでのことだ。店のレジでバーコードを読み取った音(ピ)から始まって、信号機の音(ピッポ)、車のドアを閉める音(ボボン)、自販機が缶ジュースを落とす音(ゴトパッ)などを経て、ビルから人が落ちた音(ドズッ)と遭遇する。少女が「わかる? さっきの」と訊くと「ドとシのフラット」と少年は答えた。しだいに物々しくなる現場に「なんかヒトがいっぱいきた」「どっかいこ」と立ち去る、というシーン。
 「自殺」という物語がないふたりには、信号の音やドアを閉める音と平坦に並ぶサンプルのひとつとして人が落ちた音がある。定型化された自殺という物語に、大人たちは黒山をつくる。自殺には引力があって人々は好奇心を駆り立てられる。しかし、落ちた人は少年たちには街を構成するただの一風景だ。パターン化された大人の挙動をすり抜けていく。物語の外側にいるということだ。

 聴覚が過敏なんじゃないかと思うのは、こうした物語展開があったからだ。パターン化されたもの、繰り返される表現に対してとても敏感な感じがするのは、ゴコクジニゴゴゴジの言葉遊びもそうだし、一般化したオノマトペへの違和感のようなもの、そのあとに成長した少女の口癖「ヤダ」に遭遇するからだろう。繰り返しに気づきやすいというのか、ゴコクジは繰り返しを面白がっているし、オノマトペは実際的ではない記号的な文字起こしの繰り返しを忌避してのことのように思う。それは「ヤダ」の繰り返しが、読む者の気に障ることと通じている。繰り返しは実際の社交の場のやりとりを成立させる上では表層的で、本質的ではない。それに足をとられると、話題に参加し損ねてしまう。集団のなかにいながら孤立してしまう、聴覚の特性によって黒山の内側から外れるのだ。

 作品からこうしたことを読み取るのは、こう読み取っている私にそういう側面があることに他ならない。私の場合、こうした側面を否定的に受け止めやすいのは、上の書き方からも察しがつくだろう。福島聡の漫画はそれを底抜けの明るさとして物語の動力にしている。そこがたぶんこの漫画家の作品に愛着をもつ根拠なんだろうな、などと思う。

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