シロとアオ

ひとまずシロは白、アオは青のことだが、色ではない。日本語の色の語彙のなかには、もともとその色を示すものではなかったというものがある。アカは「明か」だったというのはよく聞くものの代表だろう。

ここで私は私が勝手に妄想をひろげた色彩語のイメージを書いてみようと思う。

シロ

シロという語には白色を指示するものとともに、余地を示す「代」がある。

事代主という神がいるが、その神はともかくこの「事代」というのが私は大層気に入っている。この場合シロは当て字が示すように余地、余白の意味である。依り代というのは神がこの世に降りるために居憑く仮のボディだ。しかし依りつかないうちのボディは死体ではない。それは神がしっとりと依りつくことができるだけの余地以上ではなく、依りつかないうちのこれはボディではないのだから、それが死体ではないといえるのだ。

神が依りつく余地が依り代なら、コトが依りつく余地がコトシロと整理することができる。それはもの(物体)にほかならない。しかし、ここでは物があって事が始まるのではなく、事があって物としての占有が始まると考えることができる。逆にいえば物は事の上に成立していて、そうでないものは物たりえないということだ。

「私とは何か」「これは何か」と問うとき、トートロジーに終わることができるのでない限り、他の物と連関していく道をたどる。他との関係のあり方によってこれを位置づける、このとき物が物となっている。

意識されない物があるだろうか。まあ色々想像できる。私は私に背中がないとは思わないし、扉を閉めた一室に閉じこもっても外の世界が存在しないと素朴には思っていない。意識していないということはあるにしても。

しかしそういう意味での意識されていない物とは素朴に信じられている物であることに違いなく、ここで言いたい意識されない物とはさらにその外に存在している物のことだ。

意識されない物を思うことはできないのであって、それについて思った途端、それは存在し始めるのだ。存在とは物ではない、意識された事柄である。この点で実在と非実在を分けることはできない。意識されたすべては存在であり、意識されないことは意識されないという意味で存在ではない。

コトシロというとき、この意識される一瞬手前の属性をもたない(他と連関を結んでいない)余地を見たような気分になる。もちろんそんなのは幻想にすぎず、やはり意識されたそれは一瞬のちに属性をもち始めることと結びついて「代」という存在を表している。依り代といったときに、その代がいまどの状態にあっても、依りつくための代として意識されている時点で依りつくことと結びついているように。余地というのもひとつの存在になってしまった。

まあともかく、シロというのは白色を示すよりさきに余地を示しているということを思った。

アオ

アオはシロに対置する。この場合もアオはブルーというカラーを指示しない。

「蒼き狼」という言葉があるらしい。チンギス・ハーンの異名だとか。ブルーの狼とはどこか神秘的な感じがする。でも、これは灰色のことを指しているのらしい。

信号機の進行のランプを青というのに違和感をもつ子供だった人もいるだろう。そういえば欅坂46の歌に「黒い羊」というのがあって、その冒頭が「信号は青なのかそれとも緑なのかどっちなんだ」という歌詞だったが、あれは死ぬほどつまらない歌詞だと思った。秋元康もうちょっと真面目に書けと思ったな。……なことぁどうでもいいんだよ。

また筒井功はアオ/アワ/オオとつく地名は墓地との関係を読みとっている(『「青」の民俗学』、積読してるが)。え、青山霊園ってそういうこと?

北原白秋作詞の「さすらいの唄」には「とまれ幌馬車 やすめよ黒馬よ」という行がある。このとき黒馬はアオと読んでいる。

灰色ないし銀色、ブルーとグリーン、死者との関係、黒馬。

こういったアオのイメージを寄せ集めてくると、色彩としてはこれがそうだということが言えなくなってくる。むしろこの特定の色ではないということがアオを意味しているのではないかと思う。

アオには「鈍さ」「仄暗さ」「混濁」というイメージがあるように思われてくる。奥行きがあってどこか不穏なものという感じもなくはないかもしれない。ここに賢治の青も付け加えられるだろうか。

渾然としていること、即ち判然としていないことに通じているように思う。

シロとアオ

飽きてきたな。

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