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映画「ファーザー」に想う

緊急事態宣言が発令されて困ったのは、映画が自由に見に行けなくなったことだった。混雑が緩和されたせいで、好きなお店でゆったりご飯を食べられるようにありがたいけれど、大好きな映画までストップしたのには参った。

黙って見ているのだから感染リスクは低いと思うが、それでも何でも一律に決めたがるのが日本という国である。だからといって手を拱いている訳にもいかず、時間帯をずらし、密を避け、今日もこっそりと映画館に足を運んでいる。

そんな中、衝撃的な映画に出会った。名優アンソニー・ホプキンスが認知症を患った父親を演じる「ファーザー」である。娘や介助士との関係を描きながら、認知症の実態について紐解いていくが、時間と空間が混在する様はさながらミステリーである。

白眉だったのはアンソニー・ホプキンス本人の視点から終始、描かれていたことだ。人の名前や顔を忘れる、同じ話を何度も繰り返す、どこにいるかがわからないーこうしたことが日常的に繰り返される。しまいには時間の感覚すら失われていく。

認知症はその名の通り、時間や空間、対象を認知することができなくなり、記憶すら衰えていく症状を指す。前後の脈絡がないままアンソニー・ホプキンスが壊れていく様に、恐怖が静かに増幅されていく。

特に印象的だったのは、セーターの着方を忘れて、悪戦苦闘するシーンだった。認知症を患うと子供に戻るというが、まさにその通りだと腹落ちした。

最後は施設に収容されることになるのだが、娘の立場を思うと心が痛む。愛する父親の面倒を側で見ていたい。しかし人間の尊厳を日々失っていく様をこれ以上見るのも耐えられない。彼女の心情を察するにあまりある。

美貌や若さ、お金、権力を追い求めるのは人間の性である。しかし、そうした価値を失った人に対し、周りは愛情を持って接することができるのか? 重いテーマが突きつけられる。

価値のないものを捨て去るのは訳もない。それでもなお、その人の存在を受け止め、向き合う心の拠りどころとなるものーそれが愛だ。遠藤周作の小説「わたしが・棄てた・女」を読むとよくわかる。

人生の究極のゴールは愛すること、愛されることかもしれない。というと笑われるかもしれないけれど、この映画を観るとつくづくそう思う。

愛情を持って接したからと言ってそのまま返してもらえる訳ではない。しかし優しさを持って接してくれた記憶は一生残る。

家族が認知症になった時、そうした記憶を頼りに、温かく接することが果たしてできるだろうか。あるいは、自分が認知症になった時に、周りから愛情を持って接してくれるだろうか。人生の修行は続く。


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