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あなたが写真を撮るのはなぜか? 〜こんな時代の真ん中で〜

同じような。そう、同じようなことをなんどもなんども考える日々。
「何のために写真を撮るの?僕が。」という、いたってシンプルで、かつ非常に難解な問い。

色んな問い方はある。何がモチベーションなのかとか、何を求めて写真に溺れるのか、写真を撮るとどんないいことがあるのか、とか。原体験をたどって検索するのもいい試みだとは思う。
僕もかれこれ1年近くこの問いと向き合っているけど、未だ答えは出ず。答えが出てる人の方が少ないだろうけど、まあとりあえずは問いに向き合おうじゃないか。

僕はかつて、それはそれはかつての話なのだが、本当に本当にクリエイティブなことが嫌いだった。
なんでかって答えは2つ。1つは答えがないから。僕は昔から知的好奇心を満たすことがとっても好きで、よくわからない謎の図鑑とか、漢字辞典とかを調べ上げていた。(僕の担任の先生は、新出の漢字を取り扱うとそれを用いた熟語を調べる課題を出してくる。その先生をぎゃふんと言わせるような熟語をよく血眼になって探したものだ。)
漢字には決まりがあった。秩序があった。だから楽しかった。サメの図鑑もかっこよくて見たことない奴ばっかりで、知ることそのものが楽しかった、快感だったのだ。
 では美術はどうだ??音楽は??図工は??
僕はてんでダメだった。そう、答えがないから。もちろん、ある程度の秩序は存在する。けれど、自由にさせてくれるのがしんどかった。なんだそれ?という困惑。動揺。僕はいよいよそれらへトラウマを抱えてしまった。 

2つめの理由は、おそらく元来自由であるはずのもの(これに関しては諸説あるけど)に学校という枠組みの中で定義づけられた半ば強引な秩序の存在。僕はよく18年間もこの環境で耐えたなとも思う。
この矛盾に、毎日のようにダメージを与えられる。
たとえば、油絵を描く授業があったとしよう。
ところで、そういえば油絵は楽しかった。失敗しても重ねて描けば帳消しにできるし、そこで生まれる立体感とかが味だったりする。知らんけど。
油絵を描く授業なので、当然油絵を描くのだ。いきなりここで水彩絵の具を使ってはいけないし、墨を使ってもいけない。ましてや満を持して版画をやってもいけないわけだ。ということは、この環境で成績の高い人間は、「油絵を描くという工程を教師の想定したカリキュラムのペース通りに、スムーズにかつ大胆に、どこか繊細なタッチで遂行できる」人間というわけだ。

もちろんこの状況を認知できているなら、そもそも成績なんて関係ないという視点に立てばさほど問題はない。
でも知的好奇心の強い僕は頭を抱えてしまう。なぜなら手先は器用ではないし、答えを求めてしまうから。そう、手先が器用ではないのはここでは結構重要だ。

つまり答えを求めてあっちに行ったりこっちに行ったりして自分の興味関心はどんどん膨らみ、途中で飽きてしまい最後までたどり着けない。そうやって僕は何度もカリキュラムごとに提出するべきはずの作品を、制作途中のまましれっと放置してきた。
おいおい、ここまできて自分の無能さを人のせいにする気か?
いやいや、そんなつもりはない。ただ、そういう傾向があったというだけだ。

そんな学校教育の中で、僕は美術や音楽が大嫌いになる。もちろん今も、そんなに好きではない。多分、元来答えを求める人種なんだと思う。
そんな僕が、写真を好きになったのだからこれは本当にわからない。
写真には答えがない。だから面白い。なんて思ったことはほんの一度もないし(もし思ってたらごめん)、常にこれへの安寧を求めている。
カメラなどなどの発達で、僕がチビだった頃には想像もつかないほど、あらゆる人間が写真を目にし、写真を撮る時代になっている。今もチビだというツッコミはここでは省略する。
無論僕も写真を日々撮るのだが、よく言われるのが「誰でも写真を撮れる時代に、カメラマンは必要なくなってきている」ということ。これに関しては僕は全く逆だと思っているけど、ある種の搾取構造(写真を上手に撮れることが当たり前になり、写真そのものの価値が時価相対的に下がっていく的な)みたいなのは遅かれ早かれくると思っている。

そんな中で、なんでみんな写真を撮るんだろうというのが僕の率直な問いである。
iPhoneで写真が撮れると言っておきながら、デジタル一眼レフ自体の市場は地味に大きくなっているらしいし、その需要が大きいのも確か。サークルの旅行とかでも大体みんなCan◯nとかNik◯nとか◯lympusとか持ってるじゃん、あれあれ。

#インスタ映え とかがもてはやされた2018年で、写真にも流行り廃りはきっとあるし思想の対立もたっくさんある。
僕のイメージ、例えば、いい機材関係ない派といいものを使え派、モデル可愛いだけだからダメ派とモデル可愛いのばっか撮ってる派、フォロワー多いやつとそれをdisるやつ、Jpeg撮って出し(いわゆる無加工)とゴリゴリレタッチ、合成と一枚の写真、上げ出すだけでキリがないくらい、写真をめぐる争いはSNSでこれでもかと見かける。うるさいくらいに。そう、うるさい。

ほんで、これの大元ってなんなんだろうなあと思うと、そもそもInstagramとかTwitterっていうプラットフォーム、つまり殴り合いのリングが生まれたからっていうのもある。日に日に進化していくテクノロジーによって、思想もものすごいスピードでアップデートされては削りあっていく。
かつてはきっと何年何十年っていうスパンで磨かれてきた芸術批評が、もはや意味を成さないくらいなスピードで。これってなんでかなって考えた時に、テックの発達もあるけど、限界芸術の幅と質が広がったからでもある。
今までは1対1くらいの殴り合いが、もう何百対何百みたいな価値観の大乱闘で、超高度かつ複雑に積み上げられてきて、しかもその展開スピードも尋常じゃないから。

話が超それた。つまりあれだ、まとめると写真という比較的浅い歴史に対して、参加者がとてつもないスピードで増え、今まで専門性を有する装置であった「カメラ」が超簡単になって、しかもそれらを公表するプラットフォームが整備された結果、写真に対するインフレみたいなものが起きてしまっているということだ。全然まとまってない。

プレイヤーの増えすぎたこの空間で生き残る道を見つけることももちろんだけど、僕は最近この空間での生活に飽き飽きしていたのかもしれない。
誰もがかわいいモデルを探し、誰もがフォロワー獲得に向けてハッシュタグを付け、誰もがレタッチやら構図やらモデルやらで個別化を図ろうとし、誰もがナントカ座流星群の位置を確認し、誰もがあのカメラマンはどうとか、あのロケーションがどうとよくわからない話をする。
写真はななめっちゃいけない、フリンジは処理しろ、オールドレンズに恋をした、デジタルでフィルムを再現したい、所詮本物のフィルムにデジタルは叶わない、そんな意味のわからない戦いをする。
写真は自由だったはずなのに、いつしかInstagramにあがる写真は、そういったポジションを常に前提においた「ナニカ」に成りかわり、誰も描くことのできない謎の偶像が出来上がる。
そう、みんな学校教育の中で培われた成績表に5をつけたいだけ。そのフレームワークから、大方外れている人はあまり見たことがない。

僕は別に文句を言いたいわけではない。所詮僕もそのフィールドで、ポジションで相撲をとることしかできないのだから。だからこそこの問いについて考えるのかもしれない。僕は僕の答えがほしいし、僕なりのアウトプットをそれなりの形で評価されたいというなんとも学校教育的な承認欲求が醸成されてしまっていることに今更気がついただけである、

つまり答えの欲しい僕は、膨大なインプットを渇望し、今までウンチクとしてしかアウトプットできなかったから、脳みそがパンクしているわけだ。うん、たぶん、それもちがう。

さて、
彩度が高いと、「人生はそんなに甘くない」と言われ、
フォロワーが多いと「中身のないやつ」と言われ、
合成すると「現実を見ろ」と言われ、
友だちの笑顔を残すと「iPhoneでいい笑」と笑われ
フィルムで撮ると「サブカル系のこじらせ」と悪態をつかれ
可愛いモデルを撮ると「可愛いだけ」と吐き捨てられ
デジタルでフィルムを再現しようとすると、「ニセモノ」と嘲られ

こんなポジション取りや、先行者利益を貪る人間に「我こそは特別」とアイデンティティの拡散に悩む人間が群がるこのレッドオーシャンの中で、あなたが写真を撮るのはなぜですか?

追記:かなり煽りに煽った文章ですが、僕は写真に特殊して考えていますので、写真以外に置き換えて(他の芸術でも、ビジネスでも、部活とかでも)もいいと思います。

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