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電子機器が立て続けに壊れたんです。

そうなんです、電子機器が立て続けに壊れたんです。
え?それで話は終わりかって??
いいえ、終わりではありません。ですが話の95%は、これで言い表せていると僕は思います。

一応こう見えてカメラマンをやっているので、電子機器は人より多く身の回りにあるかと思うので、損壊機会そのものも大きいというのはまちがいないのですが、それにしても最近、僕の身の回りの電子機器は壊れすぎなのです。
扱いがひどいわけでもない、もともと壊れていたジャンク品を使っていたわけでもない、自然に消耗していったほど老品を使っているわけでもない。
……これは一体なんだ??

リストアップしてみるとこんな感じです。
・iPhone SEの画面が損傷、タッチパネル操作不能(これは僕のせいです笑)(7月末)
・Appleの正規サービスプロパイダにて、本体交換をし、新品に。がしかしその2週間後、突然電源が入らなくなる。
・海外にいたため、一切修理ができず、帰国後Appleにて本体交換を行う(つまりこの段階で2回新品になっている笑)。SIMカードを挿したが、なぜかインターネットに接続されない。いや、厳密に言うとめちゃくちゃ遅い。なんか知らんけど通信制限っぽい遅さだなあと思っていたら、本当に通信制限だった。(海外にいて一切通信量を使用していないのに、突然の死刑宣告)
・愛用していた一眼レフカメラが突然動かなくなる。一生エラー表示が出る(購入後3ヶ月後の出来事である。なんなら撮影前の朝家で動作確認をきちんと行った後の出来事である。)
・その次の日、突然イヤホンから音が聞こえなくなる。

故障だけで言うとこれくらいなのですが、他にもポケットWi-Fiが神隠しにあったり、帰国した瞬間にパソコンを空港から市街までの高速バスに置いてきたり、なんだかここ2、3ヶ月電子機器に関するトラブルがすごいのです。(もちろん、バスに置いてきたのは僕が悪いですが。笑)
「しっかりしろ」という回答、感想がぴったりなのかもしれませんが、外的要因しか考えられないような故障ばかり起きているゆえ(実際の明確な理由もさっぱり)、僕としても不信感しかないわけです。

ところが、あるとき彼女がそれに関することをググってくれていたらしく、面白いものですね、本当に僕みたいな電子機器の立て続けなトラブルに遭遇している人がいるんです。この時の感動だけでなんかトラブル起きてよかったと思える(思えない)。
その記事によると、電子機器のトラブルは、自分のエネルギーが高まったことで波動がうんたらかんたらで電子機器がそのエネルギーから放出される波動に耐えられなくなって起こるらしい。

うん、わからん。

つまりどういうことかというと、「電子機器が壊れる時は幸運が巡っていて人生が動く瞬間」ということです、はい。
8000000000歩ゆずってスピリチュアルな波動とかの話は置いておくにしても、実害多すぎて、幸運とはお世辞にも呼べないレベルではある。
iPhoneが壊れたら音楽は聞けなくなるし、Instagramは投稿できなくなるし、いつでもLINEとか見れなくなるし、電車の乗り換えもさっと調べられなくなるし、、、、
カメラが壊れたのはもっとひどい。これからカメラを仕事にしていくという時に、それが壊れたんじゃあ仕事ができないからすることがなくなる。
イヤホンもつらいよね、地味にメンタルにくる。

しかしながら、僕は何か変な気分に陥ったのです。もちろん機械は壊れずに動作するのであれば良いことに越したことはないし(もちろんそれでも機械は壊れるものなのだ)、便利な機材やガジェットを揃えていれば、幸福度も仕事の充実度も増すことは間違いない。
でもそれ以上に、自分は「機材ありきの人間なのか?」ということにハッとさせられたのです。

以前何かのSNSで「趣味はカメラという人は機材が先行している」という文章を見かけ、まさに自分だと思わされたことがありました。
これは究極的な話ではあるけれど、自分はいい機材に囲まれて、それに依存しながら充実した表現生活を送ることを追い求めていただけで、もし自分に素晴らしい機材がなかったとしたら、どうやって写真を撮るのか?ということを考えもしなかったということ。
それどころか「自分には写真を一眼レフカメラでしか撮れない、自分にはiPhoneがないと人生を豊かに過ごすこともできない」と決めつけ、カメラが壊れてから今日まで、ほとんど何もしていなかったということ。
ひどく後悔しました。それと同時に謎のやる気がもりもり湧いてきました。
「そうか、幸運とはまさにこういうことだ。自分にはまだ、カメラマンとしての覚悟もなかったし、自分という表現を生きる覚悟もなかったのか」と。

だからこそこうして、写真を撮ること以外で、何か自分が目指す世界に対してアプローチできないかと考えているのでもあるし、カメラがない状態でも少しでも人生に向かって進めていけるよう活動している。だからこのnoteを書いたわけです。
そうです、だからこの話は「電子機器がただ立て続けに壊れた」ということしか起きていないわけで、僕がそれをどう捉えたかどうかというとりとめのない話でもあります。

いいカメラは素晴らしい。昨今のフルサイズミラーレス市場の加熱化、レンズもありえないくらい高性能になっていて、そのインフレもすごい。iPhoneのカメラもまたなんかすごくなりましたよね、もう一眼レフなんていらないと言われたのもずいぶんか前でしたけど。
「カメラが壊れたことを想定して、カメラを複数個携行する」というのも現実的な対応策かもしれませんね。
でも、もしそんなことできなかったらどうする?あなたにお金がなくて、時間がなくて、機会に恵まれなくて、それができなかったらどうする??
どうしようもないこともあります。プログラミングをするのにパソコンは必須でしょうし、カメラマンにとっても、カメラがないことは致命的です。

ただそれ以外のフィールド、それ以外の表現方法で、じゃあどうするか?ということは考えたでしょうか?僕は考えませんでした。カメラが直るのを待っている間、ネットで新しいカメラを眺めたり、SNSをずーっとサーフィンしたり、だらだら寝たり、何も考えなかった。何もしなかった。
表現者として、1人の人間として、何かできることを考えることがあってもよかったのかもしれない。そう思わされた1週間でした。

P.S.もちろんカメラは修理に出しているので、早く直ってほしいものですが、もし直らなかったらいよいよ死刑宣告です。笑
これを書いてるMacBookまで壊れてしまったら僕はしばし紙媒体と向き合う人間になるかもしれません。デジタルに犯された3ヶ月だった、、、

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